ホーム>旅行記>01.中国前編(アジア旅行2001-2002)
朝起きると、空は気持ちよく晴れ上がっていた。
今日は元陽という町へ行くつもりでいたが、紅河から元陽へ直行するバスは1日1本、しかも朝6:20発のものしかなく、 ぐっすりと眠りについていた僕はあっさりその時間を寝過ごした。前にも書いたが、中国では全土で統一した標準時間を採用しており、 場所によっては現地の実際の時間と標準時間の間には大きなずれがある。ここ雲南省の紅河あたりでは約2時間程度の時差があるはずで、 朝6:20ということはつまり朝4:20発ということになる。とてもじゃないが、そんな時間に起きれそうになかった。
だから僕は元陽をとばして、緑春という町へ行くことにした。バスターミナルの時刻表には、 この緑春行き10時のバスの表示があったからだ。しかし、出発予定時間の10時に近くなっても、 緑春行きのバスがやってくる気配がない。そこらにいた人に聞いてみると「没有」(ない)という答えが返ってきた。 念のためチケット売場でも緑春行きのバスについて聞いてみたが、答えは同じだった。これがどういう意味の「没有」かは分からなかったが、 とにかく緑春行きのバスがないのは確かなようだった。
紅河周辺の風景
元陽に行けなくても緑春に行ければいいやと楽観的に考えていた僕は、両方の選択肢が消えてしまった今、 新たな選択肢を考える必要があった。さて今日は一体どこへ向かおうか。頭に浮かんだのは浪堤と元江の名前だった。 どちらも1時過ぎに便がある。宿の人の話によると、浪堤では茅葺き屋根の民家の他に、 人々が日本の下駄と同じようなものを履いている姿が見られるという。下駄も面白そうだったが、 今は下駄よりも先に進みたいという気持ちの方が強かった。下駄はまたいつか中国を訪れる時の楽しみの一つに残しておけばいいじゃないか、 そう思うことにした。
1時半に元江行きのバスは紅河の汽車站(バスターミナル)を出発した。途中までは一度通った道を走る。 しかし、行きはなぜか気づかなかったのだが、紅河の近くを流れる元江という川を見て、 なぜこの地が「紅河」と呼ばれているのかがはっきり分かった。元江は赤茶けた大地の土を吸収して、 まさに「紅い」河の流れとなっていた。茶色い川なら見たことはあったが、こんなに「紅い」川は初めて見た。 透明の支流と赤い本流がぶつかるところでは、紅色と透明の流れがまじり合い、やがて透明の水は紅色の中に飲み込まれていった。
雄大でやわらかな山並み
くねくねと蛇行しながら流れる「紅い」河の迫力に負けるとも劣らず、あたりの風景もまた雄大である。 見渡す限り山また山の山岳地帯であるが、尾根はまるく緩やかで、女性的な柔らかい曲線を描いている。 人の手が入っているのか、雨が少ないのか、山は低木がぽつぽつと生えている程度のいわゆる禿げ山であり、 山がちな地形に刻まれた襞の一本一本までをはっきりと浮かび上がらせていた。この風景の中を流れる「紅い」河は、 まるで生命体の中を流れる血管のように見えた。 僕がイメージしていた、深い森に包まれた雲南省の風景とは、まるで異なる世界がそこにはあった。 この雄大な風景は僕の目をとらえて離さなかった。
元江は紅河の西約100キロの所に位置し、紅河と同じく元江(川)沿いにあるので、川沿いの道を行くのが最短距離であるが、 バスはその道は使わずに、途中で川を渡り、石屏方面への道を北上しはじめた。一度通ってきた道をバスはどんどん進んでいく。 嫌な予感がした。まさか石屏経由で元江に行くつもりなのだろうか。地図を見てみると、確かに石屏と元江の間には国道が走っている。 一方で紅河と元江の間には、地図上では元江(川)沿いの道をのぞいては、他に道など一本もなかった。 この元江沿いの道を通り過ぎてしまった以上、石屏経由で国道を行く可能性が高かった。しかし石屏経由ではずいぶん遠回りになってしまう上に、 あまり面白くなさそうだ。
地方を走るローカルバス
そんなことを考えながら、ややブルーな気分になりかけていた時に、おもむろにバスは針路を西にとり、 恐ろしいほどの悪路の山道を走りはじめた。この突然の展開に僕の心は躍った。やはり中国の旅は少しくらい道が険しい方が面白いや。
バスは元江(川)北岸の山間部を走っているが、今走っている山の向こう側に川はあるので、この道からは元江(川)は見えない。 この道沿いの風景もまた雄大だった。
ぽつぽつと見かける集落はすべて、「土掌房」と呼ばれる平らな陸屋根住居ばかりだ。 元江(川)の南側では茅葺き屋根の住居がほとんどだったのに、川を越えた途端に「土掌房」住宅ばかりになってしまうのが何とも不思議だった。 元江が民族を分ける境界線になっているのか、あるいは単に川の南と北とでは気候が異なるのか、 その理由は定かではなかったが、気になるところだった。
この荒涼とした雄大な風景に、土掌房の集落はよく馴染んでいた。写真でしか見たことはないが、 チベットの風景にどこか似ているように思った。本当のチベットもこんな感じなのだろうか。しかしここは雲南省である。 およそ雲南省を訪れる前にはイメージしなかった雲南省の姿がここにはあり、このような思いがけない風景との出会いが、 地方をローカルバスで旅する最大の楽しみの一つであると思う。
元江周辺で見られる土掌房住宅
ひたすら続く雄大な風景を飽きずに眺めること4時間半、再び目の前に紅色の元江(川)が姿をあらわした。 バスは高度を下げ、元江(川)のほとりを走り、しばらくすると遠くの方に工場の煙と建物の群が見えてきた。 おそらくあれが元江なのだろう。これまでの山間部の風景は少し後退し、バナナなどの熱帯性の植物の植わる平地が、 あたりには広がっていた。元江の町はその名の通り元江(川)のほとりにたたずんでいた。 川沿いには今にも壊れてしまいそうな家屋が軒を連ねている。町の中心はここから少し内陸に入ったところにあるようだ。 町の並木にソテツらしきものが植わっているところなど、南国に近づきつつあるのを感じる。天気がいいせいもあるだろうが、 気温も高くなり、少々むっとするような湿度の高さも感じる。
バスはバスターミナルに到着し、そこで明日の目的地である思茅行きのバスがあるかどうか確認してみるが、 答えは「分からない」という何とも要領を得ないものだった。バスターミナルの行き先表示には思茅の文字はなく、 もっと手前の墨江までの便しかなかった。もし思茅までの直通がなければ墨江まで行って乗り継げばいいのだ。 バスターミナルの近くに宿が見つかり、そこの3人部屋の多人房(ドミトリーのこと)に投宿した。 10元/床(150円/ベッド)という安さだったが、ちゃんとホットシャワーがついていてご機嫌だった。
瀾滄ラフ族太陽祭房
(『西南民族民間建築写生』欧陽樺)
元江はただの移動の中継地であるが、今日の目的地である思茅もまた中継のためだけに立ち寄る町である。
紅河のハニ族の住居の次に見たいと思ったのは、瀾滄周辺にあるらしいラフ族の月亮祭房や太陽祭房といった、 プリミティブ(原始的)な民俗建築だった。地図でこの瀾滄をあたってみると、紅河からは遠く離れた、 雲南省の西の西、ほとんどミャンマーとの国境近くにあることが分かった。ずいぶんと距離があるが、 行きたくなった気持ちを抑えることも出来ず、バスを乗り継いでその瀾滄を目指すことにした。同じ雲南省の中でも、 これだけ移動を繰り返さなければたどり着けないという事実が、中国の桁外れの広大さを物語っていた。 むしろ鄙びた貴陽よりもよっぽど都会であるように思えた。
朝一番の便に乗ってまずは墨江を目指した。元江から墨江、そして思茅までは、すべて国道を通るので道路状態はよかった。 しかし国道だけあって、これまでの地方道とは異なり、おびただしい交通量だった。その大半はバスとトラックで、 特にトラックの数は異常な多さだった。昆明と西双版納タイ族自治州の景洪を結ぶ道路であり、 さらにその先にはラオスやミャンマーとの国境地帯が控えているので、 それらは東南アジアの国々との交易品を運ぶトラックであるのかもしれない。途中、景洪から昆明へ向かうバスに何台もすれ違ったので、 もしかしたら1人ぐらい、その中に日本人旅行者が乗っているかも知れないと思いながら、それらのバスを見送った。
地図で見るのと、実際の道を走るのとは大違いで、地図では真っ直ぐな道も、実際にはくねくねの山道だった。 予想していたよりも時間がかかり、墨江でバスを乗り継ぎ、思茅に着いたのは、元江を出発してから実に11時間後のことだった。
あきれたことに今日もまた移動が続く。しかし天気は快晴で気分はいい。今日は国道をはずれて針路を西にとり、 瀾滄、そしてさらにその先にある孟達というミャンマーとの国境近くにある町を目指す。
昨日もそうだったが、今日走っている道からの風景も木が豊かである。紅河からはさほど離れているわけはないのに、 一方では禿げ山ばかりの風景が続き、一方では緑豊かな山の風景という、まるで別の世界のような風景が隣り合って存在していることが、 とても新鮮な驚きだった。何故これほどまでに違うのだろうか。
道路状態は良く、交通量も昨日と比べるとぐっと少なかったので、バスは快調にとばし、想像よりもずっと早く瀾滄に到着した。 瀾滄の前で検問所があったが、パスポートのチェックだけで、特に問題もなく通過できた。乗っていた外国人は僕だけだったので、 僕一人だけ一旦バスから降ろされ、チェックを受けたので、正直なところちょっとドキドキしたのだが。
瀾滄から孟達への道は、アスファルト舗装ではなくなったが、それでも石で舗装されており、それほど悪い道ではなかった。 並木で囲まれた石畳の道は、日中の強い日差しを受けて真っ白に輝き、とてもきれいですがすがしかった。瀾滄を通過してから、 道端で民族衣装を着た人達の姿が目立つようになり、周囲の田んぼでも民族衣装を着て働く姿が見られるようになった。 孟達周辺はタイ族が多く住む地域であるようなので、ぽつぽつ見かける集落も写真で見たことのあるタイ族の集落らしいものになってきた。
今回の目的はラフ族の集落に行くことだが、昆明の博物館で得た情報では瀾滄だけでなく、 孟達周辺でもそのラフ族が居住しているということだったので、瀾滄をとばして孟達まで行ってみることにしたのだ。 それ以外の情報は一切持っていなかったので、あとは現地での情報収集にかかっている。
孟達の町並み
しばらく走って、バスは孟達のバスターミナルに到着した。見た感じ、ずいぶん小さな町のようだ。 バスターミナルの両側に東西に走る道路が、孟達のメインストリートらしく、この通り沿いには無数の宿が並んでいた。 いくつかの宿で値段を聞き、手頃なところを選んでチェックインした。単人房(シングル)でトイレ、シャワー、テレビ、 おまけに扇風機まで付いて30元(450円)なので安いと思った。
早速宿の人に昆明で手に入れた本を見せて、この近くにラフ族の集落があるかどうか聞いてみたが、 あっさりないと言われてしまった。若いおねえちゃんの言うことだったので、聞かなかったことにしよう。
まだまだ明るかったので、外に出て情報を集めることにした。バスターミナルに旅行会社の看板が出ていたので、ここ孟達にも旅行会社があるようで、そこにあたってみるのが一番の早道だと思った。小さな町なので、歩いているうちに見つかるだろうと思い、しばらく町をぶらついていると、程なくして旅行会社を発見した。さすがに旅行会社である、ラフ族のいる「糯福」という町の名前を的確に教えてくれ、おまけに電話してバスの時間と発車場所まで調べてくれた。日本人だと言うと「好」と言って、にこやかに送り出してくれた。
孟達にあるタイ族のお寺
ラフ族の情報を少しでも手に入れることが出来てほっとし、さらにぶらぶらと町を散策した。本当に小さな町なので、 その全容はすぐにつかむことが出来た。町は東西に細く伸びていて、バスターミナルを挟む孟達大街と城東路の2本の道路が この町のメインストリートとなっている。北側には低い山が控えていて、その山裾には古いタイ族の集落があり、 町の南側には田んぼが広がっている。
タイ族の集落に行ってみると、まず目立つのがタイ族のお寺だった。広場を取り囲むようにいくつかのお堂が建っていて、 その質素なたたずまいの美しさに驚かされた。このお寺を見ることが出来ただけでも、孟達に来た価値はあったと思った。
軒の深いタイ族の住居
屋根をぶち抜いて作られた入口と入口前のバルコニー
集落の中の住居は新しく改築したものが多いが、高床式の古い住居も結構残っていて面白い。床は柱で高く持ち上げられているが、 壁がとても低くなっていて、軒の深い屋根によってほとんど隠れんばかりである。大きな窓もないので、 中の暗さは一体どれほどのものだろうか。あまりに壁が低いので、一部の住居では、屋根をぶち抜いて、中にはいるようになっている。 入口前は必ず小さなバルコニーになっていて、そこでくつろぐおばあさんの姿が見られる。
宿の近くにマーケットがあり、そこで夕食もすませた。マーケットには果物や野菜、 肉などの食料や日用雑貨などが多数並んでいて、大きなものだった。どんなに小さな町でも、 たいがい大きなマーケットがあるのには、いつもながら驚かされる。中国人民の旺盛な胃袋を支えるには大きなマーケット は欠かせないといったところだろうか。
次の日の朝、出発の準備をして宿を後にし、糯福へのバスが出るバス乗り場へ向かう。すでに昨日の電話で話が通じていたようで、 僕が「糯福へ行きたい」というと、「おまえが例の日本人か」といったような反応が返ってきた。 バスはほぼ予定通りに出発したが、乗客はわずかに9人ほどだ。袈裟を着たお坊さんも2人乗っている。 この路線は1日2便しかないし、どうやら利用者は少ないようだ。孟達を出るとすぐに道路は舗装されていない山道になった。 タイ族の集落をいくつか通過するうちに、乗客の数も減り、糯福に着く頃には僕を含めて、わずかに3人の乗客を残すのみとなってしまった。
糯福には宿はないと聞いていたが、到着してみると、宿の1軒ぐらいはありそうな感じの村である。 逆に目当てのラフ族の「月亮祭房」や「太陽祭房」といったものがあるのかどうか、そっちの方が心配なぐらいである。
とりあえずバスを降りて荷物を抱えたまま、ぶらぶらと辺りをうろついてみる。村は新しい部分と古い集落の部分に分かれていて、 新しい部分のメインストリートは5分もあれば端から端まで歩くことが出来るほど小さい。少なくとも見た限りでは「住宿」 の看板は見あたらない。本当に宿はないのだろうか。
その辺りにいた人にラフ族の「月亮祭房」や「太陽祭房」の絵を見せ、これが見たいと言うと、「現在没有」 (今はない)と言われがっくりきた。やはりこのようなものを見たければ、ここよりももっと奥地へ行かなければダメなのだろう。 この2つの絵を見た地元の人の方が、むしろビックリしていたぐらいだ。
気を取り直して、宿があるかどうかを聞いてみると、それは「有」という心強い答えだった。宿はすぐ目の前にあった建物で、 看板も何も出ていなかった。値段は5元と格安だったが、僕以外に客のいる気配もなかった。
ラフ族の住居
「月亮祭房」や「太陽祭房」といった古い建物はないが、古い住居の残る集落部分が、 新しい部分と谷を挟んだ向かいの南の尾根筋にのびていた。住居はぱっと見た感じ周辺のタイ族の村で見かける住居と大差ないように見える。 いずれの住居も高床式の木造で、屋根はスレート葺きのものがほとんどである。住居の入口前にはバルコニーがあり、 そこでくつろぐおばあさんの姿がここでもよく見られた。この集落部分も狭いもので、小一時間もあればすべて見てまわることが出来た。 適当な場所を見つけてスケッチをしていると、いろんな人が声をかけてくれたり、しばらく眺めていったりする。僕にとっては、 スケッチもまた重要なコミュニケーションの手段なのだ。
糯福周辺の山並み
スケッチも終わり、まだ日も高かったので、糯福周辺の村を求めて山の中をあてもなくさまよい歩いてみたが、 往復約2時間かけて見つかったのは田んぼと水牛ぐらいのものだった。良かったことと言えば、のどかな自然といろんな虫、 そして地面を走る鳥に出会えたことだろうか。ちょっとしたハイキング気分の散策を終えて宿に戻った。
明日は一気に景洪まで行くつもりだ。旅立ちから約2ヶ月、ようやく第2国目であるラオスがすぐそこまで見えてきた。
翌日、糯福から瀾滄までもと来た道を引き返した。一度通った道だったので、少々退屈だ。そのせいか行きは感じなかった道の悪さを、 帰り道で初めて気が付いた。石を敷いた道なので、でこぼこが多く、何度もイスから飛び跳ねるほどの衝撃が襲ってくる。 前の席の人は、バスの窓から顔を突き出し、苦しそうに胃の中のものを吐き出していた。行きに気づかなかったのが不思議なほどの道の悪さだ。 それほど車窓の風景に夢中になっていたということだろうか。
糯福から孟達を経由して瀾滄に到着した後、バスターミナルで景洪行きのバスに乗り継ぎ景洪を目指した。
景洪は西双版納タイ族自治州の州都であり瀾滄江(メコン川)のほとりにある町である。 「西双版納」はタイ語の「シップ・ソーン・パン・ナー」のあて字であり、「かつての領主が自分の土地を12(シップ・ソーン) の区画に分割して管理させていたが、それぞれが1000枚の稲田(パン・ナー)からなっていたことにルーツがあるといわれる」 (旅行人ノート3 メコンの国)、ことからも分かるように、中国というよりはむしろ東南アジア文化圏に近い地域である。 とても国道とは思えない山道を南下していくうちに、次第に平地が増えていった。南国風の植物と、 車窓に見えるタイ族の集落が、東南アジアの世界へと僕を誘ってくれる。景洪に近づくにつれて、 沿道にはタイ族の料理屋が建ち並ぶエリアが出現するなど、ますますアジア色が濃くなってきた。 景洪までのバスは利用者が多いのかと思いきや、最後には乗客は僕を含めわずか3人になってしまった。 景洪市区に入ってからは、途中で路線バスに乗り換えさせられてしまった。
景洪に到着し、ガイドブックに載っていた「版納賓館」というホテルに向かった。立派なホテルだが、 昆明の茶花賓館と同じようにドミは別棟になっており、外国人専用だった。フロントでチェックインをすませ、別棟に向かうと、 ギターのメロディーにのって、聞き慣れた日本語の歌が聞こえてきた。景洪に来れば日本人に会うこともあるかも知れないと思ってはいたが、 こんな形で出会うとは思っていなかった。2階のバルコニーにあがると、そこには3人の日本人青年がいた。 なんとここ景洪にすでに一ヶ月以上も滞在しているという長逗留組だった。彼らの中には何となく、 ファミリーのような雰囲気が出来上がっていて、新参者の僕には少々立ち入りにくい空気があった。
景洪を流れるメコン川(瀾滄江)
宿に荷物を置き、町に出て、町の東側に流れるメコン川(瀾滄江)を見に行った。初めての海外旅行で、 タイとラオスの国境でみたのと同じく、ここでもメコンは茶色い水を滔々とたたえていた。夕暮れ時に見るメコン川は美しく、 もうすぐラオス行きを控えている僕には、そのメコンの流れは、東南アジアへの道しるべのようにも見えた。
これまで移動の日々が続いていたので、景洪では少しゆっくりしようと思っていたが、 町を歩いているとむらむらとまたどこかに行きたくなり、景洪から2,3時間の距離にある「基諾」というところへ行ってみようと思った。 景洪周辺には、基諾族という少数民族も居住しているようであり、きっとこの基諾という村にも基諾族が住んでいるに違いないと思ったのだ。
景洪から基諾までの直通バスはないらしく、途中で乗り換えなければならない。乗り換え地点であるモンヤンから先は乗り合い タクシーとなった。途中「基諾族山寨」と書かれた看板がちらりと見えたが、タクシーはそのまま通り過ぎてしまった。 まだ目的地である「基諾」ではないようだったので、そのまま乗り続けたが、案の定「基諾」は普通の小さな町で、 僕が降りるべき所は、先ほど通り過ぎた「基諾族山寨」だったのだ。運転手に「山寨」に行きたいと言うと、 「山寨に行きたいんだったら、さっきの所で降りないとダメじゃないか」といった感じで顔を見合わせ、 「ははは」と笑い合って何となく和やかな雰囲気になった。
基諾で客が集まるまで少し待ってくれと言われたが、いつまで経っても客は集まりそうにないので、 結局運転手は僕一人を乗せたまま、山寨まで戻ってくれた。「ここが山寨だ。あそこで票(チケット) を買って山に登ればいい。」と親切に教えてくれた。チケットと聞いてちょっと面食らったが、 村への入口を見て納得した。基諾族は太鼓がどうやら有名なようで、日本の太鼓の両端に棘をつけたような 独特の太鼓の形を模した巨大なゲートが、村への登り口の突端に据え付けられていた。知らないふりをして通り過ぎようと試みたが、 近くの小屋でトランプをしていた若者に呼び止められ、入村料として10元を徴収された。よほど引き返そうかとも思ったが、 せっかくここまで来たのだから、村の中を覗いてみることにした。村への階段を登っていると、後ろから太鼓を鳴らす音が聞こえてくる。 どうやら誰か来たことを知らせる合図なのだと思うのだが、太鼓を鳴らしたからといって、しばらく待ってみたが、 特に誰かかが迎えに来るとか、熱烈歓迎といった様子はまったくなく、村の中はいたってひっそりとしていた。
巨大な女人像
基諾族の村は入口の様子から察しがつくように、少々いただけない方向に観光地化されていた。 村への階段を登っていくと、まず最初に僕を迎えてくれるのは、仰向けに半身が地面に埋まった、巨大な女人像であった。 果たしてこの像にどんな意味があるのか、何の説明書きもなかったので分からなかったが、周囲に何もない山の中に、 突然このような巨大な像があらわれるのは、どう考えても不自然である。
水牛の角を模したゲート
その像を横目に、さらに階段を登っていくと、小高い丘のてっぺんにたどり着き、 そこには太鼓の実演用のホールが2つとレストラン、それに屋外劇場などの集まったエリアがあらわれる。 ちょっとあまりにもやりすぎで見ている方が悲しくなってくる。客の姿は僕以外には一人もなく、 これらの施設に囲まれていると、寒々しい気分になってきた。ここはツアーで訪れる村だったのだ。
このエリアを通り抜けると、ようやく集落に入り、ここでは道の舗装と、集落入口のゲートに多少演出の跡が見られる以外は そのままの集落の姿が残されていた。ゲートは水牛の角を模したもので、ここまで来ると、あきれる以上に、 あの巨大女人像とこのゲートを考えだした人間の大胆な発想に、逆に感心してしまう。
太鼓と住居
ここ基諾族の住居も、これまで見てきたタイ族やラフ族の集落のものとよく似ていた。確かに少しずつ違うのだが、高床式であることや、 入口脇にあるバルコニー、そしてスレート葺きの屋根など、ぱっと見た印象はほとんど同じである。ここでは民族の違いよりも、 むしろ居住するエリアによって住居の形式というものが決まってくるのかも知れない。近くに住む民族同士が、 互いの住居の作り方に影響を与え合うというのは大いに考えられることだった。
基諾族の住居
集落は南に開いたU字型の尾根の上に立地する小さな規模のもので、小一時間ほどで全体を見てまわることが出来た。 途中雨が降ったりしたが、スケッチをはじめると雨も止み、今度は逆にスケッチブックの照り返しが眩しいほどに快晴の天気となった。 日向でスケッチしていたので、太陽の強烈な日差しをあびて、ジリジリと肌が焼けていくのが分かった。南下につれて、 太陽光線の力も強くなってきているのだろうか。
村にはいるまでは寒々しいものだったが、さすがに村の中ではそこに生活する人々の姿が見られ、 スケッチをしていてもわらわらと子供達が寄ってくるのはいつもと同じだった。
ホールの中に置かれた太鼓
スケッチも終わり、村を去る前に太鼓の実演ホールで、一人太鼓を眺めながら昼飯のパンを食べた。 シーンとしたホールに太鼓が三つ並べられ、板の張られていない屋根の妻面からは太陽の光が射し込み、 ホールの中は荘厳な雰囲気に包まれていた。太鼓は真ん中のものがひときわ大きく、真正面からその太鼓を見たとき、 この太鼓は太陽を象徴しているのだと思った。太鼓の両端につけられたトゲトゲは、太陽の光を表現したものなのだろう。 よく見れば太鼓の腹に描かれている模様にも、太陽らしきものが見られる。ということは、 基諾族は太陽を神として祀っている民族なのかも知れない。
山を下りるとタイミング良くバイクタクシーがあらわれた。少々割高になるが、 いつ来るか分からないバスやタクシーを待つのもわずらわしいので、バイクタクシーで景洪に戻ることにした。
朝の8時、同室の二人はまだ眠ったままだったので、なるべく静かに出発の準備をするが、二人とも目を覚ましてしまった。 あまり深い交流はなかったが、それでも少しは打ち解けた彼らに対し、「それじゃあ、また景洪で会いましょう」 と軽い冗談を言いあって宿を後にした。
景洪からガンランパへのバスは何と10分に1本の割合で頻発している。バスではなく実際は軽トラックで、定員は6人だった。 さらに南国に近づいていく風景をよく見たかったが、残念ながら一番後ろの席だったので、景色はほとんど見えなかった。 景洪からガンランパまで一時間、アッという間の行程だった。
ガンランパは景洪から、さらに南下すること約37キロ。いよいよこの町が、中国最後の滞在地である。 タイ族の民族風情が見られるというガンランパは、さすがにタイ族の伝統的な民家がそこかしこに見られた。 これは町を歩くのが楽しみである。ガイドブックにはこの町の地図は載っていなかったので、言葉だけの情報を頼りに 「竹楼」という名前の宿に宿泊することにした。人に聞いてようやく探し当てた「竹楼」はレストランの改装中のようで、 まるで工事中のテナントのように、雑然とした様子になっていたが、そのかたわらに、おまけのように部屋が数部屋設けられていた。 地べたに布団を敷き、その上に蚊帳が吊ってあるだけのお粗末な部屋だった。レストランの改装に力を入れる前に、 部屋の改装にも力を入れて欲しかった。
部屋に荷物を置き、町の散策に出かけた。少し歩くとすぐに町の端に到達し、その先には一面田んぼが広がっていた。 田んぼなど中国でいくらでも見かけることが出来るが、なぜか今目の前に広がる田んぼには東南アジアの空気を感じた。 それはかつてタイで見た水田の様子によく似ていたからなのかも知れない。あるいは風景というものは人が創り出すものであると考えると、 中国よりも東南アジアに近い人々が住むこの辺りの風景が、東南アジアに似てくるのは、当然と言えば当然のことだったのかも知れない。
ぶらぶらと町の中を歩いていると、マーケットを見かけたので入ってみた。狭い入口の割りに奥行きが結構あり、 ここのマーケットもまた規模の大きなものだった。このマーケットで昼飯として、きしめんのような米で出来た麺を食べた。 苦手な香菜(パクチー)が麺に添えられて出てきたが、機会があれば少しずつパクチーを食べる練習をしていこうと思っているので 、ここでも一口パクチーを口にした。錯覚かも知れないが、北の方で食べたパクチーほど、南の方で食べるパクチーは強烈ではないように感じた。
ガンランパのメインストリートは東西に走っていて、市場はそこから直角に南北に走っている。市場を抜けると、そこにもう一本、 メインストリートと呼べそうな道路が東西に走っていた。こちらの道路には、外国人向けのカフェが一軒と、ネット屋が数件並んで建っていた。 この道路をそのまま東に行くと、タイ族園というガンランパの主要名所の一つに行けるようだ。ガンランパでは三輪タクシーの客引きが多く、 みんなこのタイ族園のパンフレットを持って客引きしている。
タイ族園のチケット
ガンランパのタイ族の住居は、ほとんどがレンガ造りの塀で囲われていて、近くで見ることもなかなかかなわない。 写真も撮りにくいということが分かったので、このタイ族園に行ってみることにした。チケット代が気になったが、 他に行くところもなかったので、とにかく行ってみることにした。入場料は20元(300円)、高いがギリギリ許せる範囲内だった。
タイ族園はタイ族の民家をいくつか建てたテーマパークだと思っていたら、4つほどの村を丸ごとテーマパークにしたような、 規模の大きな、本格的なものだった。村が先か、テーマパークが先かは分からなかったが、 タイ族の伝統的な民家が飽きるほど見ることが出来るので、来た甲斐は十分にあった。それぞれの村には立派なお寺があり、 それもまたこのタイ族園の売り物の一つになっている。
タイ族の住居
孟達で見たタイ族の民家と同じように、ここガンランパで見るタイ族の民家も足の長い高床式住居で、大きく張り出した屋根で、 壁のほとんどが覆い隠されている。何故これほどまでに壁を隠すのだろうか。強烈な太陽の日差しを避けるため、 と説明することもできそうだが、何かそれ以外にも理由がありそうな気がしてならない。
タイ族のお寺
しかし日差しが強いのは確かで、日光を遮るものもあまりないタイ族園の中を歩きまわっているうちにくたくたに疲れてしまった。 折り畳み傘を日傘代わりに使うが、それでも暑さが傘を通り抜けて頭を襲ってくる。この日差しの強さは完全に南国のものだった。
宿に戻り、シャワーを浴びて、レストランのテーブルで日記を書いているとホタルが飛んでいるのが目に入った。 一匹見つかると、あっちにも、こっちにもたくさんのホタルがいることが分かった。なんだか、たったこれだけのことでもすごくうれしくなって、 しばしの間、その光の舞に心をときめかせていた。中国語でホタルは何て言うんだろう?やはり光虫かな?今度聞いてみよう。 (辞書で調べてみると、ホタルは中国語では「蛍火虫」というらしい)ホタルだけではなく、他の虫もどっさりいて、 やはり蚊帳は必要なのだと納得した。
中国からラオスへ向かう最後の道中、バスの窓からは鬱蒼とした熱帯性植物(?)の間から、 タイ族の民家の屋根が見え隠れしていた。雨の降りしきる薄暗い天気の中、黒くすすけたその屋根は、 木々の濃い緑にしっとりと馴染んでいた。あいにくの雨だが、雨期の東南アジアに向かうには、 ちょうどふさわしい天気と言えるのかも知れない。あるいはようやく馴れてきた中国での旅も、 今日でひとまずお別れという寂しい気分が、今日の天気と妙にマッチしていたのかも知れない。
バスはさほどきつくない山道を登ったり、下ったりしながら、ほぼ予定通りの時間で、途中の町に到着した。 そこから国境の町モーハン行きの車に乗り換える。2時間ほど走るとモーハンにある中国側のイミグレーションに到着した。 イミグレの職員は日本人に馴れているようで、顔を見ただけで「日本人か?」と聞いてきたり、「こんにちは」、 「ありがとう」などと、少しなまった日本語を連発し、陸路国境越えの緊張感を和らげてくれた。 越境の手続きはスムーズに終わり、ここから少し距離のあるラオス側のイミグレーションまで、トラックの荷台に乗って向かった。 トラックの荷台から遠ざかる中国を見て、「さようなら中国、また来るから!」と一人つぶやき、ちょっと感傷的な気分になってしまった。 中国の国境越えがトラックの荷台というのが、何だかとてもふさわしいように思えた。