ホーム>旅行記>01.中国前編(アジア旅行2001-2002)
揚子江(長江)の南、江蘇省・浙江省の水郷地帯は江南と呼ばれ、水と共生する古い町が点在している。 上海から列車(火車)に乗り、まずは江蘇省の蘇州に向かうことにした。
水路沿いの街並み
上海→蘇州の列車のチケット
初めて乗る中国の列車。硬座(一番安い指定座席。さらに安いチケットとして、 「無座」つまり自由席というチケットもある。)のチケットを手に上海駅へ。 ずいぶん余裕を持って駅に着いたが、すでにすごい人の列が出来ていた。少し面食らいながら僕もあわてて列に並ぶ。 一応席の指定はあるはずなのだが、列車の中の混み具合を見ていると少々不安になってくる。しかし列車に乗り込み、 自分のチケットに書いてある番号を見せると、みな親切に席の場所を教えてくれた。まわりの人はひとしきり僕に質問を浴びせかけてくるが、 僕が中国語をまったく話せないと分かると、そのうち興味を失ったようである。
上海を出て少しすると、早くも一帯は田舎の田園風景になる。僕が訪れたことのあるアジア、ヨーロッパの国々では、 どんな大都市でも、少し郊外に出るとそこにはのどかな田園風景が広がっていた。このような風景を見ていると、 市街地の風景が途切れることなく続く日本の風景が、少し異常なものに思えてくる。
上海を出て1時間ほどで列車は蘇州の駅に到着。列車の席で仲良くなった青年が蘇州での宿探しを手伝ってくれた。 安い宿を探していると言うと、駅のすぐ近くの招待所(中国には「飯店」や「賓館」など宿の呼び方はいろいろあるが、 この「招待所」も宿の一つ)に話をしに行ってくれた。1人30元(450円)という手頃な値段だったが、 残念ながら外国人の宿泊は認められていないという。その後も長いこと僕の宿探しに付き合ってくれたが、 結局150元(2250円)の宿しか見つからなかった。これ以上彼を引っ張り回すわけにもいかないので、 初日はそこに泊まることにした。最後までいろいろ気を回してくれた彼は、「我住在上海有事打電話.*小心一点!我先走了.再見!」 (*はニーハオのニー、あなたという意味の文字です。たぶん「僕は上海に住んでいるので、何かあったら電話してくれ。 じゃあ気を付けて。僕はもう行くよ。じゃあまた!」という意味)と僕のメモ帳に書き残して去っていった。 彼は上海で「打工」をしていると言った。後で手に入れた日中・中日辞書で調べてみたがよく分からなかった。 「打工」って何だ?
蘇州は開発の進む都会だった。蘇州という名前の響きから、もう少しこぢんまりした田舎町を想像していた。 「東洋のベニス」(ベニスまたはヴェネチア:水の都として世界的に名高いイタリアの街)とも例えられる水郷の町並みを求めて、 町中をほっつき歩くこと数時間、町を取り囲む外城河の周辺でようやく、それらしい風景に出会うことが出来た。
いかにも中国らしいつくりの家が狭い路地を挟んで建ち並ぶ。外に対してはごく小さな窓と出入口があるだけである。 壁はレンガ造りの上に白壁を塗ったもので、古い民家の多くは平屋建てになっている。水路に面していないところでは、 路地はぐっと狭くなり、場所によっては幅が1mに満たないところもある。水路沿いには所々で水路に降りる階段が設けられている。
狭い路地を家が取り囲む
水は汚く、生活排水は水路にたれ流しの様子である。舟も浮かんでいるが、現在生活に使われている気配はあまりなく、 水路沿いの街路をバイク、自転車が走り回っている。路地は所々広くなっ小広場のようになっており、そこには木が生えていたり、 井戸があったりして、生活広場として使われている。
おそらく昔はこのような町並みが蘇州市街を覆っていたのであろうが、 開発によって中心部の町並みがどんどん取り壊され、近代化されていき、端の方が古いまま取り残された形となっているのだろう。 歩いている最中にも、そのような取り壊されつつある古い町並みを見かけた。今はオアシスのように市中に点在する庭園も、 かつての古い町の文脈の中で成立していた部分もあったのだと思う。昔の蘇州を訪れてみたかったと強く感じた。
路地の風景
中国の詳細な地図を探しに十全街と呼ばれる通りを自転車で走っているとき、偶然にもインターネットカフェを見つけた。 店の名前は「心心网*」(*部分は日本語変換で表示されなかった文字です。口へんに巴でバーと中国語では読むようです)、 英語で「HEART NET BAR」と書かれてあったので、ネットカフェと分かったのだ。しかし通信速度はめちゃくちゃ遅く、 2時間かかってホットメールでメールを2通読み、3通送信するのがやっとだった(2元:30円/時間)。
中国ではインターネットが流行っているようである。その証拠にいくつか見てまわったインターネットカフェはどこも人でいっぱいで、 みなチャットのようなものを楽しんでいた。町中では日本と同じようにあちこちで携帯電話を片手におしゃべりを楽しむ若者の姿が目立ち、 店のディスプレイにも携帯電話があるれている。中国にも時代の波がすごい勢いで押し寄せているようである。
水路で洗濯をするおばさん
蘇州→同里のバスチケット
蘇州の汽車站(バスターミナル)で、僕は少々の不安と大きな期待を胸に、同里(トンリー)行きのバスの出発を待っていた。 バスターミナルの待合室は、行き先別に分かりやすく表示されている。大きな都市へ向かうきれいで大きなバスとは違って、 同里へ向かうバスはぼろぼろのミニバスだった。
同里という町の名前は蘇州の本屋で見つけたポストカードで知った。同里は蘇州のすぐ東に位置する江南水郷の町の一つである。 大学時代、古くからの集落や民家建築の研究にのめり込んだ僕は、今でもそのような土地に根ざした集落や建築に異様に惹かれてしまう。 同里は僕の持っていたガイドブックには載っていなかったが、同じく蘇州の本屋で購入した中国全土の詳細な地図帳で場所だけはわかった。 どうやって行けばいいのか、行った先で泊まる所はあるのか。何も情報はなかったが、「とにかく行ってみよう」という気持ちが強かった。
同里の宿「徐宏民家客桟」
蘇州から1時間ちょっとでバスは同里に到着。蘇州で安い宿を探すことが出来なかった僕は今度こそ、 と意気込み「住宿」の看板を頼りに民家のような宿を探し出し、その門をたたいた。 「安い部屋はありますか?」 「安いってどれぐらいだ?」 船でおぼえたわずかばかりの中国語が早速役に立った。調子に乗った僕は思い切って言ってみた。 「15元(225円)」(これはかなり安い値段) これを聞いた宿のおじさんは少し怒ったように、僕を追い出すような手振りをした。しかしそれでもぐずぐずしている僕に、 「まあ、とにかく座りなさい」と椅子を差し出してくれた。しばらく待っていると兄ちゃんが呼ばれてやってきた。 その兄ちゃんに部屋を見せてもらい、1泊50元(750円)で泊めてもらうことにした。安いとは言えないが、 民家の一室を利用したトイレ・シャワー付の快適な部屋だった。
部屋に荷物を置き、その兄ちゃんやおじさんと筆談を交えながら自分のことや家族のこと、 これから行きたい所や食べたいものなどについて話していると、最初は怖そうだったおじさんだったが、 だんだん打ち解けてきて、僕のことを気に入ってくれたようだった。建築に興味があって、古い民家が見たいと言ったら、 兄ちゃんこと徐宏(シーホン)君が町を案内してくれることになった。
同里は小さな町だが、一目見て美しい町だとまず最初に感じた。絵葉書にもなるくらいなのでかなり観光地化されているが、 それでもよく見ているとまだまだ庶民の生活がちゃんと残っている。
町中に水路が張り巡らされ、街路から水路へ降りるための階段が無数に設けられている。水路と生活が密着している証拠だ。 水路の水はかなり汚いと思ったが、洗濯や食器・野菜などを洗うのに、その水路を利用しているのをよく見かけた。 また、ほとんど観光用となっていたが、水路には昔ながらの小船がゆらりゆらりとたゆたっている。その水郷の町並みに、 黒い瓦と白い壁の古い民家の家並みがよく映えていた。
緑あふれる水路沿いの風景
水路沿いの街路の一部には屋根がかけられており、みな椅子や机を街路にまで出してきて、 日陰のとても心地よい半屋外空間をつくり出している。そこではお約束のようにおじいちゃん、おばあちゃんがたむろしていたりする。
ある水路は非常に緑豊かであったり、ある水路は船着場になっていたりと、それぞれに性格の異なる水路が、 めりはりのある魅力的な町の構成要素になっていた。橋一つ見ても、階段一つ見ても感動した。 僕は夢中になって歩き回り、写真を撮った。最初感じた不安もすぐに消え去り、来てよかったと心から思うことが出来た。
夜、部屋でくつろいでいると徐宏君がやってきた。僕がメモ帳に書き込んでいたインターネットの文字を見て 「インターネットがやりたいのか?」と、ひょうきんな身振り、手振りを交えて聞いてきた。 あまりにもそのジェスチャーがおかしかったので笑ってしまい、僕も彼の身振りを真似して「やりたい」と答えた。 まっ暗闇の同里の夜道を徐宏君とインターネット屋に向かった。
インターネット屋に向かう途中、おもむろに徐宏君ががっちりと僕の肩に手を掛け、ぴったりと体を寄せてきた。 暗闇の中での、この密着ぶりにおどおどしていると、徐宏君は僕のことを「朋友」(パンヤオ:友達)と言ってくれた。 日本ではいくら親密でも男同士べたべたくっついて歩くということはあまりしないが、中国ではしばしば見かける光景だった。 これが中国式の友情の表わし方なのだろうかと思うと、彼の言葉がうれしかった。
看板も何も出ていない、普通の家のドアを開けると、暗くて狭い一室に10台ほどのパソコンが並べられていた。 若者たちが画面に向かって、何やらチャットらしきものに熱中している。蘇州でもそうであったが、 中国の若者はやはりインターネットにはまっている様だった。残念ながら満員で、待っている人もいたので今日はあきらめることにした。 ちなみに料金は1時間2元(30円)と格安だった。
翌朝、トイレで小用を済ませていると、窓からひょっこり徐宏君の顔があらわれた。「ニーハオ!」と朝から元気だ。 昨日お粥が食べたいと僕が言っていたためか、朝食としてお粥とちまきを用意してくれていた。
家と家に挟まれた細い路地
今日もまた徐宏君が町を案内してくれる。彼と一緒にいると怪しまれずに家の中にまで入って行けるので助かる。 古い民家が見たいと言ってあるので、古い家を見つけると中に案内してくれる。家と家の間の細い路地をあちこち連れまわしてくれた。 同里の町は水路沿いの町並みだけでなく、街区内の路地もまた魅力だ。とびきり細い路地は、その細さゆえ同里観光の名所にもなっている。
昼食もまた徐宏君宅(といっても宿と同じ建物)でごちそうになった。ご飯と数種類のおかずにスープという一般的な家庭料理だった。 おかずの中にはタニシのような変り種もあったがすべてうまかった。単なる宿泊客を越えたもてなしに、僕に対する好意か、 または中国人の心意気を感じ正直うれしかった。
小さな町ではあるが、同里には世界遺産に指定されている小さな庭園もある。50元(750円)という入場料の高さゆえに敬遠していたが、 驚いたことに徐宏君が僕をその庭園に連れて行ってくれた。徐宏君は若そうに見えるが、宿も彼が経営するもので名前も「徐宏客桟」という。 もらった名刺にも「民居客桟会長」という肩書きが書き込まれていた。実はえらい人なのだ。会長の特権かどうかは知らないが、 彼は数枚つづりになった庭園への入場券を持っていてその一枚をタダで僕にくれたのだ。庭園は中国らしい繊細さで 造り込まれたすばらしいものだったが、観光で訪れた中国人でひしめき合っており、風情も何もあったものではなかった。
夕食後、徐宏君の家族と筆談を交えて会話を楽しんだ。徐宏君の嫁と子供と両親、彼の兄とその嫁さん、子供まで集まり、 家族勢揃いでずいぶん盛り上がった。なんだか中国人の一般家庭の生活を少し垣間見ることの出来る、ほのぼのとしたいい宿だった。
「徐宏客桟」の名刺(宣伝してくれと頼まれたので)
翌朝、おじさんの手配してくれたタクシーに乗り込み、僕は次の町、周庄へ向かった。 おじさんと徐宏君がタクシーの所まで見送りに来てくれた。僕をタクシーに乗せた後、家路に向かう2人のうしろ姿、 徐宏君は後ろで手を組み、おじさんが彼の肩に手をかけていた、そのうしろ姿が印象的で、今でも僕の心に焼き付いている。
同里と周庄を結ぶバスはないため、周庄へはタクシーで向かった。やや値は張ったが、 手配してくれたおじさんの好意を無にしたくなかったからだ。周庄は同里と同じく古くからの水郷の町である。 タクシーで行くと30分もかからないうちに到着してしまった。
周庄の町並み
蘇州のような大きな町より、同里やこの周庄のように小さな町の方が、外国人も泊まることの出来る安い宿は探しやすいようである。 今回も宿はすぐに見つかり、ベッドを2つ置くと、あとはもう何も入らないほど狭い部屋を、30元(450円)で確保した。 身分証の提示を求めてきたので、パスポートを見せると唖然としていた。日本人がここに泊まるのは初めてなのだろうか。
水路に船を浮かべる鵜飼い
着いた日が日曜であったせいかもしれないが、周庄は同里に比べて観光客が多く、やや落ち着きのない町のように思った。 明・清時代の古い建物が多いが、その多くが土産物屋や売店、食堂になっているので、あまり生活感というものが感じられない。 それでも美しさという点で言えば、同里と同じかそれ以上のものがあった。
周庄ではやってみたいことが一つあった。それはハンコをつくること。中国の絵画や書には様々な判が押されていて、 味わいのある脇役として、しっかりその存在感をアピールしている。ハンコを作るならやっぱり中国だろうと思っていたのだ。
路上に机を置いただけのハンコ屋がいくつかあり、そこではわずか3、4分でハンコを作ってくれる。こういう時、 もう少し自分の名前が複雑であればと思うのだが「田中周一」では唯一「周」の文字に少し期待できるぐらいである。 出来上がったハンコは、やはり少々しまらないものとなった。しかも微妙にへたくそである。せっかく手に入れたハンコであるが、 どうしても気に入らない。さんざん迷ったあげく、もう少し店を選んでもう一つハンコを作ってもらうことにした。 今度は「田中周一」に2文字加えて、少々偉そうではあったが「田中周一之印」としてもらった。仕上がりの雰囲気も変えてもらって、 まずまずの出来上がりだったので、これでよしとした。しかし、実際に押してしばらく眺めていると、 へたくそな方もそれなりに味があっていいような気がしてくるので不思議だ。
宿に帰ると隣のベッドに客が入っていた。30元で一部屋だと思っていたのだが、どうやら1ベッドの値段だったようだ。そう考えると高いぞ。
夜、部屋でくつろいでいると、花火を打ち上げている音が聞こえてきた。今日は祭りの日なのだろうか。 外に出て、小一時間ほど花火を楽しんだ。旅の初っぱなからついているような、ちょっと得した気分になった。
翌朝、相部屋となった中国人がごそごそと身支度を始める音で目が覚めた。さすがにまだ旅が始まったばかりで、 いくら相部屋になったからといって、いきなり心を開くのはなかなか難しい。それにしても、 これほど狭い部屋に中国人と2人きりで一夜を明かすとは思っていなかった。部屋の広さはおそらく3畳に満たないだろう。 中国人はどこでも痰を吐くことで有名だが、部屋の中でまで痰を吐き出したのには辟易した。しかも洗面器にお湯を入れ、 狭い部屋の中で足まで洗い始めた。足を洗い終わった洗面器のお湯はそのままである。しかし自分のベッドの汚さだけは気になるらしく、 しきりにシーツの上のゴミを払ったり、布団のほこりをはたいたりしていた。このあたりの感覚は、 日本人の僕にはいまいち理解できないものだった。
この日は水路沿いの欄干に腰掛けてスケッチをした。僕の他にも絵を描く中国人の画学生の姿が見られた。 スケッチをしていると多くの人がのぞき込んでくる。何を言っているのか分からないが、「不好」(よくない)と言っているようにも、 「好」(よい)と言っているようにも聞こえる。気にしては負けなのである。
日が暮れてからの周庄には観光客の姿はほとんどなく、そこに暮らす人達の日常的な生活を垣間見ることが出来る。 昼間、観光客相手に見せる表情とはちょっと違い、どこかほっとしたような表情に見えるのは気のせいだろうか。 大部分の観光客は、昼間だけのツアーとしてこの周庄を訪れる。しかしこういう町の本当にいいところは、 人の少ない朝や夕方に見られるのだと思う。昼間の印象はそれほど好くなかった周庄だったが、 ここにきてやはり来て好かったと思うようになった。
住宅からもれる明かりがいつもよりあたたかく感じられる。思わず夜の周庄をそぞろ歩きながら鼻歌を口ずさんでいた。 今では宿のおかみさんも、僕の顔を見て笑いかけてくれるようになった。祭りの続きであるのか、宿の前の水路で、 4つの灯籠流しのようなものをやっていた。しかし水路に流れはほとんどなく、若い女の子達が長い竹竿を持って必死に、 しかしとても楽しそうに水路の真ん中まで持っていこうとする。そんな姿もなんだかすごくほほえましかった。