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ホーム旅行記>01.中国前編(アジア旅行2001-2002)

01.中国前編

5.香港 <2001年4月19日〜4月25日:厦門→香港>

<厦門>香港

高頭から厦門まではバスで5時間の道のりだ。福建省ではやたらとお茶のもてなしがあり、 高頭ではひたすらお茶を飲んでいたような気がする。そのためか、やたらと尿意が催してくるのは困ったことである。 特にバスは列車と違い、自分の行きたいときに自由にトイレに行けない不便さがある。厦門までの5時間は尿意との戦いだった。

車掌が女性であったので、なかなかトイレに行きたいとも言い出せず、ぐっと尿意をこらえていたが、 何度目かの波がおそってきたとき、ついに我慢できずに「厠所」(トイレ)と紙に書いて車掌に見せた。 車掌はめんどくさそうに「わかった、わかった」とただうなずくだけである。一応は通じたようだったので、 ほっと一安心しバスが停車してくれるのを待った。が、しかし5分、10分と時間は過ぎていくのにバスはいっこうに止まる気配を 見せてくれない。車掌もバスを止めようと動く気配はない。冷や汗が額ににじみ出る。15分ほど経ったころ、 たまらず2度目のアピールを試みた。車掌はやはりただうなずくだけだ。「どうして止まってくれないんだ?」 と思っているとようやくバスは道ばたのガソリンスタンドに止まってくれた。僕は真っ先にバスを駆け下りトイレに走った。

高頭で雨にうたれてしまったせいか、少々体調が悪いということもあり、厦門では早く宿を確保したかった。 これまでは小さな町や村に滞在することが多かったので、宿は現地で歩いて探していたが、今回はガイドブックに頼ることにした。 しかしこれが間違いだった。そのガイドブックが少し古いものだったので仕方なかったのだが、 そこに載っている中で安かったひとつの宿は改修中で、後の二つはあるべき場所に宿すらなかった。これにはまいった。

昨日まで山中にいて少々肌寒い時もあったので、僕はトレーナーを着て、さらにその上にジャケットをはおっていた。 その格好のまま厦門まで降りてきたのだが、厦門では半袖を着ている人もいるくらい暑く、僕の服装は明らかに浮いていた。 無駄足に終わった三軒の宿を探し回っている間にずいぶん汗をかいてしまった。

おそらく厦門は急速に発展し、開発が進んでいるのだろう。いたるところでビルが建設され、一方で閉鎖されたビルがあちこちで見られた。 重い体とカバンを引きずりながら、うなだれて他の宿を探し歩いた。歩いている場所が悪いのか、厦門は都会であるにもかかわらず、 なかなか良さそうな宿が見つからない。ようやく見つけた宿は、ちょっと見た感じ外国人が泊まれるかどうか怪しげであったが、 聞いてみるとOKだった。

チェックインして部屋に落ち着いた後、かなり疲れてはいたが、まずは体を休める前に洗濯を済ませておきたかった。 こういうものは勢いでやってしまわないと、面倒くさくなってしまうのだ。洗濯は大体が洗面台でやることになるが、 下着などの小物類はまだしも、シャツなどになってくるとなかなか大変である。洗った洗濯物は部屋の中に物干しロープを張って干しておく。

洗濯などの用事を済ませ、夕食を食べるため外に出かけることにした。宿は厦門大学の近くにあり、何かと便利なことが多そうである。 本屋に立ち寄った後、「Internet Cafe」という看板の出ていたインターネットカフェに入ってみた。 中国で「Internet Cafe」という文字を見たのは、ここ厦門が初めてであり、そのことが厦門の発展の様子をあらわしているような気がした。

今回の旅に出るにあたり、僕は日本から日本語エディタの入ったフロッピーディスクを用意してきていた。 「Belfast 日本語 Editor」というそのソフトは、日本語フォントがインストールされていないパソコンでも、 日本語の読み書きをすることが出来るというとても便利なソフトだ。インターネット上からダウンロードすることが出来、 しかもフロッピーディスク1枚に十分収まるコンパクトなものなので、海外を転々とする旅行者にはうってつけのソフトといえる。

しかし中国ではなかなかこのフロッピーディスクを使うことが出来なかった。中国には意外なほどインターネットカフェが多かったが、 そのほとんどは一台のパソコンで他のすべてのパソコンを管理できるようになっており、利用者にはネット関係のソフトしか開放されておらず、 フロッピーディスクや、CD-ROMなどへのアクセスは出来ないようになっていた。厦門でも事情は同じで、フロッピーは使えないようになっていた。 それでも大都会だけあって、インターネットは快速で、これまでのどこのネットカフェよりも速かった。

翌日、空はどんよりと曇り、おまけに霧が出ていて何とも浮かない天気であったが、 厦門最大の観光名所であるコロンス島に行ってみることにした。バスで中山路まで行き、そこから歩いてフェリー乗り場に向かった。 海辺は整備された遊歩道となっていて、のんびりくつろぐ人や釣りをする人、もの売りなどで賑わっていた。 フェリー乗り場の周辺にはバスターミナルや郵便局などもあり、港町としての交通の要所の一つになっているようだった。 コロンス島はすぐ近くにあるので、こちら側から見渡すことが出来るが、今日はあいにくの天気なので、 ぼんやりとしかその姿を見ることは出来ない。

フェリーは往復で3元(45円)、庶民の足ならではの安さである。  今日の天気と同じく、僕の体調もどんよりと沈み込んでいたので、ぼちぼち、のんびりぶらつくことにした。 コロンス島側のフェリー乗り場周辺には観光客相手の土産物屋やカブトガニなど海鮮を主としたレストランが集中していて、 活気があるが、一歩中にはいると、静かで落ち着きのある街であることが分かる。建物は西洋風の大きなものが多く、 中国にしては珍しい独特の街並みとなっている。また、コロンス島には車がほとんど入っておらず、 中国の街のあの車やバイクなどによる騒がしさはまったくなかった。中国のごちゃごちゃした街並みや、 信じられないほどの騒がしさに興奮していた僕には、このコロンス島はちょっと物足りなく感じられた。

宿に戻り、昨日の夜に干しておいた洗濯物の乾き具合をチェックする。が、どうしたことかほとんど乾いていない。 いくら部屋干しとはいえ、一日も干せば少しは乾くだろうと思っていたが甘かったようだ。少しでも乾いてもらわなければ困るのだ。 部屋の湿度を下げるべく、部屋の空調を利かせ、夕食を食べるため再び外に出た。

中国の食事は美味しく、ほとんどハズレというものには出会わないが、今日の夕食はハズレだった。 ハズレの出るときの味の傾向は同じで、やたらと酸っぱいのだ。もしかして腐っているのか?と不安になることもあるが、 同じものを食べているまわりの中国人は平気な顔をして食べているので、おそらく料理の中に僕の苦手な味のものが入っているのだろう。 あるいは中国人は多少腐ったものを食べても、びくともしない頑丈な胃袋を持っているのか・・・。

夕食の後、今日もインターネットカフェに向かう。薄暗いネットカフェでパソコンに向かっていると、 ふと今自分がどこにいるのか分からなくなることがある。いつの間にか頭がインターネットの世界にトリップしているのに気づく。 そこは日本でもないし、中国でもない・・・。時々耳に入ってくる中国語だけが、自分が今中国にいるのだということを思い出させてくれる。

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厦門<香港>

厦門から夕方6時20分発の夜行バスで、香港へのゲートシティである広東省シンセンに向かう。 夕方まで荷物をあずかってもらっていた宿の人に別れを告げると笑顔で「再見」と言ってくれた。僕も笑顔で「再見」と答え宿を後にした。

シンセンまでは高級バスで向かった。今まで乗ったバスの中では一番高級であったが、まだこの上に豪華バスというのがあり、 確かに高級と言うには少々おそまつなものではあった。振動に弱いビデオCDはとても観賞に堪えるものではなかったし、 ちゃんと閉まっているはずの窓からは、雨漏りがしていた。バスは途中エンジンの故障か何かで2時間ぐらい止まった以外は比較的順調に走り、 朝方にはシンセンに到着した。

シンセンは経済特区であるためか、シンセンに入るときにパスポートチェックがあった。香港に入境するときにも出入境手続きがあり、 中国のビザはここで切れてしまう。中国に返還されたとはいえ、香港はまだまだ中国とは別の国のようであった。 経済特区というだけあってシンセンもずいぶん発展した都市であったが、香港の発展ぶりは桁が違った。 香港の中心部に入る前からすでに、郊外には高層住宅らしきビルが林立している。電車の中はきれいで、床にはゴミ一つ落ちていない。 九龍駅から地下鉄に乗り換え、さらに香港の中心地へ向かうが、この地下鉄も日本と同じくらいきれいなものだった。

地下鉄を降り、一歩街に踏み出すと驚くべき光景が目の前にあらわれる。 密度高く林立する高層ビル群とそのビルから突き出たおびただしい数の巨大な看板、そして町中を走り回る2階建ての路線バス。 さして広くない道路を何台もの2階建てのバスが走っている様子は、まるで建物の一部が動いて乗客を運んでいるようにも見えた。 徹底的な高度利用、それが香港の圧倒的な第一印象だった。

ラッキーハウスの怪しげな入口 ラッキーハウスの怪しげな入口

香港では、日本人宿として有名な「ラッキーハウス」という宿に泊まる予定だ。 事前に調べていたおおまかな所在地の情報をもとに歩いて探しまわるが、あまりに数の多い看板の中から「ラッキーハウス」 の文字を見つけるのはかなり大変だった。何度か行き来していた道でようやく小さな「ラッキーハウス」の看板を発見し、 チェックインすることが出来た。部屋の中の様子はお世辞にもきれいとはいえない。話によると、部屋の中の2段ベッドやついたてなどは、 宿の親父があり合わせの材料で作ったらしく、親父の人柄が至る所からしみ出ているようなそんな宿だった。 ラッキーハウスは一応男女別のドミトリーで、1ベッド80香港ドル(約1340円)である。 ドミトリーであるにも関わらずこれほど宿代が高いということは、香港の物価が高いということを示している。 この宿を選んだのは日本語が通じるということと、中国の6ヶ月マルチビザが簡単にとれるという理由からだった。 そもそも香港に立ち寄ったのも、この6ヶ月マルチビザが欲しかったからである。

香港の街路の様子 香港の街路の様子

霧のように細かい雨がしとしとと降る香港の街を、地図を片手に歩いてみた。まずはすぐ隣の筋である廟街に行ってみる。 沢木耕太郎の『深夜特急』にはこの廟街のマーケットのすさまじさが描かれていたが、今はまだ昼時であるせいか、その面影は見られなかった。

香港の街はラッキーハウスのある「九龍サイド」と海を挟んだ対岸の「香港島」に別れている。 今歩いているのは「九龍サイド」の方で、メインストリートの一つである彌敦道(ネイザンロード)が南北に背骨のように、 まっすぐ海に向かってのびていて、とても分かりやすい街の構成になっている。かの有名な重慶マンション (無数の安宿等が入っている雑居ビル)もこのネイザンロード沿いにある。

九龍サイドの先端は一大文化ゾーンになっている。ここからは対岸の「香港島」の近代的な超高層群を眺め渡すことが出来るはずだったが、 今日は雨で霞んでいた。

中国銀行(I.M.ペイ設計) 中国銀行(I.M.ペイ設計)

香港上海銀行(ノーマン・フォスター設計) 香港上海銀行(ノーマン・フォスター設計)

翌日、今度は「香港島」に渡ってみる。香港島は超近代的なビルが建ち並ぶオフィス街が中心となっている。 「九龍サイド」から「香港島」へは、地下鉄で行ってみることにした。「中環(Central)」駅で降り、外に出てみると、 目の前に刃物のように鋭いデザインのビルが天を突き刺すように空に向かってのびていた。I.M.ペイ設計の中国銀行だ。 建築の世界では有名な作品である。そのすぐ近くには、これまた有名なノーマン・フォスター設計の香港上海銀行が、 鉄とガラスでつくられたその斬新なフォルムを誇示するかのようにそびえ立っていた。それ以外にも有名無名の超高層ビル群が 、僕のまわりを取り囲み、まるでビルのジャングルの中に放り込まれたような感じだ。

人であふれる屋台街 人であふれる屋台街

きれいに整ったセントラルを離れると、香港といえど、街並みも少しずつ怪しく乱れはじめるようであった。 やがてきれいなオフィスビルとは対照的な屋台街が幅を利かせはじめ、辺りの様子は一変する。新しい建物の間の狭い路地に、 まるで寄生するように屋台が軒を連ねている。この辺りは坂が多く、このような屋台街が坂のずっと上の方まで続いているのが見えてくると、 わくわくするような、浮き立つ気分になってきた。果物や野菜、肉などの生鮮食品から、こまごまとした日用雑貨まで、 そこでは何でも売られているようだった。平日だというのに屋台街は人であふれかえっており、活気に満ちていた。 すましたような高層ビル群だけではなく、このような庶民の場所がごく身近に共生しているところが香港の魅力の一つであるのかも知れない。

屋台街を離れ、地図を片手に坂道を一人散策していると公安に呼び止められ、職務質問を受けてしまった。 「どこから来た?ここで一体何をしているのだ?」といったことだ。パスポートさえ持っていれば特に問題はないのだろうが、 悪いことにビザの申請でパスポートは預けてしまっている。持っていないから色々説明しなくてはならず、 これがまたなかなか通じてくれない。幸いパスポートのコピーは持っていたので開放してもらえたが、 コピーすら持っていなかったらどうなっていたことだろうか。

スターフェリーから見た香港島 スターフェリーから見た香港島

香港は様々な人種が世界中から集まる人種のるつぼである。特に目立つのは東南アジアの国々からやって来たらしき人々である。 フェリーターミナル周辺や公園などには、必ず彼女たちの集団がたむろしている姿が見られる。 その中には違法で訪れている人達もいるのだろう。そのため公安のチェックが厳しくなっているのに違いない。 多分僕もどこか東南アジアの田舎町から出てきた怪しげな男と見られてしまったのだろう。

宿に戻ると大阪の人が新しく宿の住人に加わっていた。こんな宿に泊まっているから、てっきり旅人かと思っていたら、 そうではなく香港でこれから働くために今日はその面接を終えたばかりだという。他にも、 明日の香港ムービースターを目指す若者2人や香港でDJデビューをもくろむものなど、一癖も二癖もありそうな人達が集まっていた。

後になって看護婦をやっているという大阪人の女の子が宿に来たので、大阪人3人で夜中遅くまでずいぶん盛り上がり、 この旅初めての夜更かしを楽しんだ。考えてみれば、上海で日本人の旅人達と別れて以来久しぶりにしゃべることの出来た日本語、 しかも大阪弁が心地よかったのかも知れない。

「南邊圍」の入口 「南邊圍」の入口

次の日の朝、宿においてある香港のガイドブックをちらちらと眺めていると、 古い街並みが残っているところとして元朗という町の名が紹介されていた。この香港にもそんなところがあるということが意外に思えて、 その元朗という町に行ってみたいと思った。地図を見てみると、中心部からはかなり距離があるので、結構時間がかかりそうだった。

電車、バスを乗り継ぎ元朗に向かった。元朗自体は都会だが、この町の中心部から東北のはずれに古い街並みの残る南邊圍や西邊圍 という場所があるらしい。町のはずれといってもそれほど大きな道ではないので、歩いてもそんなに時間はかからなかった。

「圍」というのはどうやら壁に囲まれた居住区をあらわしているらしく、4階建ての壁を兼ねた住居が狭い居住区を取り囲んでいた。 正面には「南邊圍」と書かれた門があり、内部の通路に通じている。ちょっと部外者が中に入るにはためらわれる雰囲気がなくはなかったが、 好奇心の方が勝り、お邪魔させてもらうことにした。

「南邊圍」の特徴は壁に囲まれた狭い居住区に、とにかく高密に住居が建て混んでいるということである。 門から真っ直ぐのびる通りがメインの通りとなっているが、その幅は両手を伸ばすと両側の壁に届くか届かないかといった程度しかない。 それ以外の通りは幅1mにも満たない狭いものばかりだ。内部は人影が少なく、ひっそりとしてどこかゴーストタウンのようだった。

3,4階建ての住居がわずか1mの路地に建ち並ぶ 3,4階建ての住居がわずか1mの路地に建ち並ぶ

平屋建ての古い住居 平屋建ての古い住居

一部古いレンガ造りの平屋の住居が残っていたが、ほとんどの住居は新しく建て替えられ、3階建て、4階建てにその姿を変えていた。 幅1mに満たない路地の両側に3,4階建ての住居が建ち並ぶとその圧迫感はかなりのものだった。 なぜこれほどまでに寄り集まって住まなければならなかったのか、その理由はよく分からなかった。 町のまわりは田園地帯が広がっており、家を建てる土地はいくらでもありそうなものだが、 それでもこれほど狭い壁の中に集まって住むのは、あるいは客家が厚い壁で囲われた土楼を作り上げた背景と 似たようなものがここにもあったのかも知れない。

香港最終日の朝食は、大阪の看護婦さんと一緒に小龍包を食べに行くことにした。わずか3日の休みで香港までやって来て、 連日朝から晩まで歩きまわり、マカオにまで足を延ばしてきたという元気な女性だった。今回の旅の目標は「自分の限界に挑戦する」 というものだったらしく、それでこれだけ精力的に歩き、見てまわっていたのだという。

出発がほとんど同時だったので、彼女と一緒に宿を出た。といっても彼女は空港へ、僕は中国国境へ向かうので宿の前でお別れだ。 これからまだまだ長い旅が続く僕に対して、最後に彼女が「頑張って!!」と声をかけてくれた。


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