ホーム>旅行記>01.中国前編(アジア旅行2001-2002)
凱里から貴陽まで約2時間30分、整備された道路をバスは快適に飛ばした。しかし山を削って通された道路の周辺には、 工事後の荒々しい風景が目立ち、地方の生活道を行くローカルバスのような趣はあまりなかった。 中国ではどこに行っても工事中の道路を見かけた。こんなところにも開発路線を行く中国の発展の一端があらわれているように思った。
バスは貴陽の火車駅(鉄道の駅)の近くのバスターミナルに着いたので、そのまま駅で明日の昆明行きの硬座 (指定の2等座席)のチケットを購入した。昆明まで約12時間の夜行のため、硬臥(2等寝台)のチケットが欲しかったが、 手に入れることは出来なかった。どうやら僕は中国の列車での旅には運がないようだ。
貴陽では1泊148元(約2200円)という蘇州以来の高級ホテル(?)に宿泊した。 一度は駅周辺の安宿を求めて1泊20元(300円)の部屋も見てみたが、 あまりの部屋のひどさに安宿に泊まる気もすっかり失せてしまった。体調もまだ万全ではなかったため、 高くても熱いシャワーの出る快適な部屋でせめて一泊ゆっくり休みたかった。
貴陽は貴州省の州都である。貴州省は「天に三日の晴れの日なし、地に三里の平地なし、民に三分の銀もなし」 (『地球の歩きかた 中国』より)という言葉で言いあらわされるほど起伏に富んだ山がちな地形が多いが、 その厳しい地形条件ゆえに開発が遅れ、中国の中でも最も貧しいエリアの一つであるらしい。貴陽の町を歩いていても、 とても省都とは思えない鄙びた印象を受けるのも、そういったことが背景にあるのだろうか。広大な中国の省都ともなれば、 かなりの大都市であるはずだが、貴陽ではメインストリートである中華路と、後いくつかの大きな通り沿いに皮一枚 へばりついている近代的な建物群が、かろうじて省都としての面目を保っているように見えた。
貴陽→昆明の列車のチケット
貴陽に一泊した後、13時間の夜行列車にゆられて雲南省の昆明に到着した。
雲南省といえば、つい数年前まで「中国最奥の地」とか「神秘的な秘境」といったイメージを勝手に抱いていた。 その中でも「昆明」という地名には何故かとびきり「秘境」的なものを感じていた。たとえばそれは、何千年も時が止まった古の世界が、 外界から忘れ去られてひっそりとそこにあるといった、いわゆる桃源郷のようなイメージであった。そしてそこを訪れるのも決して容易ではなく、 きっといくつもの険しい道のりを越えてはじめてたどり着ける場所であるに違いないと思っていた。それほど当時の自分にとって中国、 しかも「雲南」という地は遠い世界だったのだ。しかし実際の昆明は雲南省の省都であり、もちろん当時の僕が思い描いていた秘境の地ではない。むしろ鄙びた貴陽よりもよっぽど都会であるように思えた。
何はともあれ、昆明の駅で地図を購入し、宿までのバス路線を探すことにした。地図にはバスの路線図が書き込まれているので、 それをたどれば何番のバスが目的地まで走っているが分かるようになっている。昆明で泊まる宿は茶花賓館と決めていた。 茶花賓館にはラオス領事館が入っているので、ラオスのビザの取得が楽だと思ったからだ。ラオスビザはまだ取得してなかったので、 この後ラオスに入国するためには、ここ昆明でビザを取っておく必要があった。
茶花賓館まで直行するバスは見つからなかったので、町の中心部にある広場までバスで行き、 そこから宿まで歩くことにした。想像以上に立派な茶花賓館の外観に面食らいながらもフロントでチェックインをすませ、 部屋に案内してもらった。部屋は1泊30元(450円)の3人部屋のドミトリーだった。部屋にはいると、そこには日本人の女性がいた。 「あれ?部屋番号を間違えたのかな?」と思い、部屋の番号を確認してみるがやっぱりあっている。 どうやらこのホテルのドミトリールームは男女混合であるようだ。
彼女はタイ、ラオスをまわって、タイから飛行機で昆明にやって来たばかりだそうで、 これから中国を2ヶ月ほど旅して日本に帰るらしい。幸い彼女は男が同室であってもあまり気にしないということだったが、 それにしても無造作に壁に下着など干してあったりすると、逆にこちらが目のやり場に困ってしまう。
ハードな移動の後とはいえ、新しい町に着いてじっとしていることも出来ず、僕はさっそく町歩きに出かけた。
昆明はかつては城壁で囲まれていたのだろうか、ぐるりと町を取り囲むように環城路と呼ばれる大通りがめぐらされている。 その円の中心がちょうど昆明の一番の中心地になっており、雲南省人民政府などの主だった機関もこのあたりに集中しているようだ。 宿の前の東風東路をずっと西へ行くと、やがて中心である南屏街に出る。通り沿いには秘境のかけらすら感じられない、 近代的な町並みが続いていた。それでも大通りから一本外れた通りには、まだ古い町並みの残るエリアがあった。 大通りの北側には「花鳥市場」と呼ばれるエリアがあり、日用雑貨から魚、鳥などの動物、果てはワサワサと動き回る虫まで 、様々なものが売られていた。南側のエリアはイスラム教徒の居住地になっているようで、食堂の看板はアラビア語(?)が併記されており、 通りにはムスリムの帽子をかぶった人の姿が目立つ。
この通りをぶらぶら歩いていると、通りの先に立派な建物が見えてきた。この小さな通りの先に、 あのような立派な建物があるのが不思議に思えて、まるで引き寄せられるようにその前に行ってみると、 それは「雲南省博物館」の建物だった。手元のガイドブックを見てみると、この博物館は5万点以上の収蔵品を誇る雲南省最大の博物館で、 少数民族に関する展示もあるという。昆明では特に何を見るというあてもなく、ただぶらぶらとさまよい歩いていただけだったので、 この博物館には少し興味をおぼえた。それに、もし大通りの方からこの博物館にアプローチしていたら、 これほど惹きつけられるものはなかったかも知れないが、先ほど通ってきた小さな通りからの、ある意味ドラマティックな見え方が、 この博物館を魅力的なものにしていた。博物館にはいるのにこのような動機もあるのだなと思いながら、 その省博物館に入ってみることにした。
10元のはずの入場料は何故か5元に値下げされていた。これはついていると思ったが、その5元の意味は、 博物館に入ってすぐに納得させられた。展示内容は大きく分けて3つ、1つは銅鼓がテーマ、1つは仏教美術、 1つは少数民族の民族衣装がテーマとなっていた。展示の規模はどれも似たり寄ったりだったが、どう数えてもその展示品は5万点には はるかに及ばない。肝心の大展示室などが閉鎖されているようだったので、おそらくは大規模な模様替えか、 展示品入れ替えの途中だったのだろう。そのため、省最大とはいえ、その実態はかなりしょぼいものになっていた。
その中でも僕にとって興味深かったのは銅鼓のコーナーだった。かつて論文の調査で滞在したフィリピンの山岳民族の村でも、 儀礼の際はこの銅鼓(「ガンサ」と呼ばれていた)を使ったダンスが執り行われた。首狩りを習俗としていたその山岳民族の 「ガンサ」は取っ手が人間の顎の骨というおっかない代物ではあったが、その本体の銅鼓の部分は、今目の前にある銅鼓の形とよく似ていた。 そのフィリピンの村で使われていた「ガンサ」も、特に音の良いいくつかのものは中国伝来のものではないかという話も聞いたことがあり、 もしそれが本当だとすれば、そのルーツがここにもあるわけで、かなり気持ちを込めてみることが出来た。雲南省でも、 各民族が儀礼の際にはこの銅鼓を使用していたようであり、水牛やトラ、ヤギ(?)などの小さな像が装飾されているものもあった。 その像は決して上手なものではなかったが、その微妙なへたくそさが僕の心をくすぐった。精巧に作られた美しい像を見るのも楽しいが、 このように人の手のあとが感じられるようなへたくそさは、時の隔たりを越えて直に見る方に伝わる何ともいえない味わいがあって、 見ているだけで愛着がわいてしまうものだった。
あっという間に博物館を見終わった後は、目星をつけておいたいくつかの本屋を見てまわった。 中心から少し外れた「新聞路」と呼ばれる通り周辺には、その名前にふさわしく、新聞社や本の卸売り市場などがあった。 本の卸売市場はかなり規模が大きく、いくつもの本屋が集まっているような所だった。
昆明からは南下してラオスを目指す予定にしているが、その前に少し雲南省を見てまわりたいと思っている。 雲南省のガイドブックとして「旅行人ノートB メコンの国」を持っていたが、そればかりに頼るのも面白くないし、 一番の興味の対象が、昔ながらの村や集落を訪れることにあったので、出来る限りの情報は現地で収集するのが一番いいと考えていた。 雲南省の情報を集めるのなら、省都である昆明が最適なはずなので、この昆明でいろいろ本屋をめぐってみようと思っていたのだ。
しかし、卸売市場はあまりに本の数が多すぎ、その本の海の中から目的にかなった手頃な本を探し出すというのは至難の業であり、 何軒もの本屋をまわって、本のタイトルを追っていくうちにヘトヘトに疲れてしまった。 仕方なくこの市場で本を探すのはあきらめ、近くにある民族出版社というところに行ってみることにした。 小さいながらそこには民族関係の本が充実していた。そこで雲南省、貴州省、四川省、チベット、広西、湖南省の民家を扱った 『西南民族民間建築写生』(欧陽樺 雲南美術出版社)という本を見つけ、それを17.8元(267円)で購入し宿に戻った。
シャワーを浴びた後、部屋でその本を片手に地図とにらめっこしながらラオスに入るまでのルートをいろいろ検討した。 果たしてこの本に載っているような村に自力でたどり着けることが出来るのかどうか分からなかったが、 行けるところまで行ってみようと思った。これからはこの本が僕のガイドブックがわりだ。
翌朝早く、同室の女性は石林に向けて出発した。入れ替わりに北海道出身のチャリダーがこの部屋の新たな住人となった。 彼は昆明から大理、麗江、中旬と自転車で走破してきて、今朝中旬から昆明までバスで戻ってきた所だったらしい。 後は昆明から飛行機で広州まで行き、広州から香港に渡って、そこから日本に帰るらしく、彼は「自分はもうロスタイムに入ってます」 と満足そうに語ってくれた。彼は写真が趣味らしく、世界中を自転車で走り回って写真を撮っているそうで、 ヒマラヤやアルプス越えといったスケールの大きな旅を繰り返している。その話は壮大でつい引き込まれてしまう。 特に印象的だったのは、ある峠を越えるときに一緒になった西洋人とのエピソードで、 標高数千メートルの峠でテントを張って野営をしていた時に、満天の星の下でその西洋人は 「よく四つ星や五つ星級のホテルに泊まったって自慢する人がいるけど、僕たちは今、”無数級”のところに泊まっているんだよ」 と言ったらしい。このような体を張った旅をしていない限り、決してはけないセリフである。そんな旅の出来る彼が格好いいなと思った。
他にもこの宿に泊まっている日本人は多いらしく、ホテル一階の談話室の一角には、いつしか日本人がたむろするようになっていた。 ラオスのビザ待ちの連中も多く、皆雨がちな天気をさけてホテルでのんびりしゃべりながら過ごす時間が多かった。旅に出る前、 建築関係の仕事についていた人も二人いて、僕と境遇がよく似ていた。その他にも「何もしないこと」 を目標に旅に出てきた出版会社に勤める女性や、これからバンコク経由でイエメンを目指すという人まで、 どこか個性的な人達が集まっていて、実に久しぶりに日本語での会話を楽しみ、その夜はみんなで中華料理の卓を囲んだ。
昆明での日々はこのような面白い人達と過ごす間に過ぎていった。その中でも特に個性的で面白かったのは、 ビザの申請のためにラオス領事館で書類の書き込みをしていた時に出会った男であった。 彼の持っている荷物はわずかに小さなリュック一つと「ディジュディジュ」と呼ばれる巨大な笛 (オーストラリアのアボリジニーの楽器だそうだ)だけだった。しかしその小さなリュックの中身が衣類や その他もろもろの旅行必需品ではなく、太鼓であると知ったときには本当に驚いた。荷物が少ないのもここまで徹底されると気持ちいい。 彼はこれからラオス、タイを経て日本へ戻るらしい。時間はあるが金はないらしく、その金額は果たしてタイまでもたどり着けるのか、 こっちが不安になってしまうほど少なかった。時々その自作のディジュディジュを路上で演奏しては小銭を稼ぎながら旅をしているらしい。 お金は無くても悲壮感はまったくなく、そのたくましさと、とことん楽観的な明るさがうらやましかった。こんな旅もあるのだ。 彼とは気が合い、僕にしては珍しく、彼ともう一人出版社に勤める女性をまじえて、朝までうだうだと談話室で語り明かした。
茶花賓館で仲良くなった人達と固く握手をかわし、お互いの旅の安全を祈って宿を後にし、僕は一人バスターミナルに向かった。 気の合った人達との別れは寂しかったが、こうして出会いと別れを繰り返しながら旅というのは進んで行くんだろうな。
昆明→通海のバスチケット
昆明の次は針路を南にとって、まずは通海という町を目指すことにした。ガイドブックによると、この通海周辺には回族、 蒙古族の村があるというので寄ってみることにしたのだ。
バスはきれいに舗装された高速道路を快適に飛ばしていく。周辺の風景は比較的広い平地が広がり、 そのまわりは山が取り囲んでいる。山はなだらかで柔らかい印象を受けるが、ほとんど見渡す限り農地として耕されているので、 全体的に寒々しい風景となっている。住居は赤土のブロックを使って建てられているので、時々あらわれる集落はみな赤茶けて見える。 外部に対しては閉鎖的で、壁の中に中庭を持つタイプの住宅であるらしく、中心に据えられた立派な門を軸にシンメトリー (左右対称)なつくりになっているものが多いようだ。
途中、玉渓市でバスを乗り換え、2時間強で通海に到着した。町の中心部近くに宿をとり、 まだ明るいので通海の町を少しぶらついてみることにした。
ちょっと歩いただけですぐに分かるが通海は小さな町だった。町の端から端まで歩いてもそんなに時間はかからないだろう。 町の中心にはシンボル的な建物が建っており、そこから東西南北に街路が延びているという大変分かりやすい町の構成になっている。 住居も古いものが多く、全体的に感じの良い町というのが第一印象である。
夕食時にお好み焼きに似たようなものを売っている屋台を見つけたので買って食べてみたが、あまりに辛くて粉っぽいので、 ほとんど食べることが出来なかった。食堂の集中するバスターミナル周辺でいろいろ物色するが、ことごとく串焼き屋で、 ほとんど選択の余地というのものがなかった。通海では食生活で苦労しそうである。
翌朝起きると、すりガラス越しでも分かるぐらいどんよりとした天気のようだった。カーテンを開いて窓を開けてみると、 案の定今日もまた雨である。しかし雨にも負けず、今日は通海近郊の回族と蒙古族の村に行ってみるつもりである。 朝飯にミーセンと呼ばれる、米で作られた麺の入ったスープを食べるが、ここもやはり辛かった。 なるべく唐辛子を洗い落とすような感じで麺だけをすする。汁はとてもじゃないが飲めたものではない。
回族や蒙古族の村のある河西行きの軽トラックは、バスターミナルから少し外れたところにたまっていた。 屋根のあるところでその運転手らしき人達が、雨を避けて炭火で暖をとっていたので、「河西に行きたいのだが」と聞いてみると、 その車だと言って一つの軽トラックを指さした。軽トラックにはまだ誰も乗っておらず、出発までにはまだ時間がありそうだったので、 僕も呼ばれて彼らの輪に加わった。
タバコを吸う男達
「名前は何だ?どこから来たんだ?仕事は何をしている?どうして河西へ行きたいんだ?」などという、 いつも通りのおきまりの質問が矢のように飛んでくるので、僕もいちいちそれに答える。このちょっとしたやりとりが、 コミュニケーションをとる上ではとても大切なことだった。
彼らのうちの一人が、まるでバズーカーのような巨大な筒を口に当てて吸っていた。 この筒のようなものは、このあたりに来てからよく見かけるようになった。「それは何だ?」と聞いてみると 「烟筒だ。うまいぞ」という答えが返ってきた。タバコのようだ。時々筒の中からボコボコという音が聞こえてくるので、 もしかしたらこれが水タバコというものなのかもしれない。水タバコは西アジアで広く愛用されているものなので、 回教徒、つまりイスラム教徒がこのあたりまで水タバコをもたらしたのかも知れない。実際聞いてみると、 この輪の中にも3人の回族がいるということだが、見かけはまったく他の中国人と同じように見える。
河西周辺の町並み
客がぽつぽつ集まりはじめ、ようやくの出発となる。軽トラックの中には蒙古族らしい民族衣装を着た親子ずれも乗っている。 河西は通海のすぐ近くなので20〜30分も走ると河西の町に到着した。回族、蒙古族の村にはここから歩いて行く。 回族の村は下回村といい、その村には小さなモスクがある。緑色をしたタマネギ型の屋根がのっているので遠くから見てもすぐにそれと分かる。 回族の村といっても住居はこの周辺で見かける住居と外見的には同じようである。ただ村の中にムスリムの帽子をかぶった人の姿が目立っていた。
狭い路地の先は行き止まり
白閣村の様子
下回村を通り抜け、田んぼの中の1本道をずっと歩いていくと、やがて蒙古族の村である白閣村に至る。 村の中は蒙古族の民族衣装を着た人が多く華やかだ。住居の形式は外見上は下回村や周辺の村々と同じく赤茶けた外壁が特徴的だ。 背後に山が控えていて、そのふもとにへばりつくように、横に長く村が広がっている。その山の等高線に沿う形で一本分かりやすく メインストリートが通っていて、そこから山に向かっていくつもの枝道が延びているという櫛形の道のパターンとなっていた。 枝道の多くは袋小路になっていて、そのままどこにも抜けることも出来ずに引き返してくることになる。散策をしようと思ったら、 この枝道を行っては返し、また別の枝道を行っては返すことの繰り返しになる。村の中をぶらぶら歩いていると、 子供達がわざわざ家の中から道端まで出てきてうんちをしている姿を見かけた。出したうんちはもちろんそのままである。 僕も知らない間に一つぐらい古いうんちを踏んづけてしまっているかもしれない。道端には犬や鳥、牛など、 様々なもののうんちが落ちているからだ。うんちを避けるために下を向いて歩くか、町並みを見て歩くか、 僕としてはやはり町並みを見て歩きたい。(汚い話でごめんなさい)
気のせいかも知れないが、何となくこの村は部外者に対して警戒心を持っているように感じた。 僕を見る視線がきついような気がしてちょっとこわい。歴史的な経緯がそのような警戒心を持たせるのかも知れないし、 あるいは単なる僕の気のせいかも知れない。
中国というのはこれほどバカでかい国なのに、国内に時差というものがなく、全国で統一した標準時間を採用している。 雲南省のこのあたりでもすでに2時間程度の時差があってもいいはずである。いくら夏に近づきつつあるからといってもまだ5月、 いつまでたっても日が暮れないように感じるのは、この時差による錯覚のせいだろう。だから朝10時のバスといっても、 実際には朝8時くらいのバスに乗ったことになる。
今日の目的地は通海の南約百数十キロのところにある紅河という町だが、通海から紅河への直通バスは(多分)ないらしく、 途中にある石屏という町を経由して行くことにした。石屏まで行けば間違いなく紅河までのバスはあるだろう。 紅河周辺には土ブロックの壁の上に茅葺き屋根をのせた哈尼族の住居があるらしく、それを見てみたいと思った。
がたがたの道を例のごとくおんぼろのバスに乗って行く。僕にとっては、このバスでの移動が一番旅を感じる乗り物のようだ。 それも中国製の中型バスがいいようだ。最初は窮屈に感じたその狭い座席も、やがて体にぴったりフィットするようになり、 何時間乗ってもお尻が痛くなるようなことはなくなった。がたがた道とは言っても、道路の状態は貴州省のそれよりもはるかに良く、 快適にバスの旅は進んでいく。
周辺の風景は切り立った岩山といった感じだ。山が険しく、石でゴツゴツしているので田畑がほとんど見られない荒々しい 自然の風景がしばらく続いた。バスが進むにつれて風景は変わっていき、やがてやや緩やかな斜面の多い、 それでも山がちな風景となってきた。耕作地が増えてくるとともに、ぽつぽつと集落の姿も見かけるようになる。 このあたりもまだ昆明周辺で見かける形式の住宅と同じものが主となっているが、ややこれまでのものよりも屋根の反りがきついように感じる。 また切妻の部分を白く塗っている住居が多いのが、これまでとは異なる特徴だ。あとちらほらと、ほんの少しだが、平たい陸屋根の住居 (土掌房というらしい)を見かけるようになった。先ほどまでの荒々しい自然の風景と比べるとずいぶん柔らかい、 穏やかな風景になった。きれいに石を積んだ棚田には、青々と稲が育ち、美しい緑の海のようだった。
4時間ほどで石屏に到着し紅河行きのバスに乗り換える。このあたりに来ると、見かける集落の様子はがらりと変わり、 陸屋根の土掌房住宅ばかりになった。何故このあたりで急に陸屋根に変化するのか、 その理由は見当もつかないが、昆明で買った建築本によると、これは紅河に住むタイ族の住居であるらしいことが分かった。
道中、トラックと乗用車の衝突事故があった。横を向いたトラックが道をふさいでいて、 もう少しのところで車が通れないようになってしまっていた。乗用車の方は前面が大破しており、 フロントガラスには頭で割れたあとが生々しく残っていた。額から血を流している人がいたので、 おそらくその人の額によって割れたあとなのだろうが、幸いにもその人は自分の足でしっかりと立っており、 見た目ほど怪我の状態はひどくないようだった。警察の現場検証が終わるまで車を動かすことは出来ないらしく、 みなバスから降りてきて事故車のまわりにたむろしている。先を急ぐ車のために、そこらにいた人達が即席の土木工事員になり、 1メートル以上もの段差のある道路脇に石を積み上げて道路幅を広げ、乗用車程度なら通れるようにしてしまったのには驚いた。 崩れそうで崩れない、あやういその即席道路を、先を急ぐ車が果敢に通り抜けていく。 こういう時の中国人の団結力にはすごいものがあると思った。
警察の現場検証が終わり、車が通れるようになるまでに2時間かかった。ようやく走り出したバスは、 うっぷんを晴らすかのようにぶっ飛ばし、あやうく2つ目の事故を引き起こしそうになりながらも、 なんとか日のあるうちに紅河に到着してくれた。
紅河というぐらいだから川のほとりにあるのかと思っていたのだが、山の上の小さな町が紅河だった。 宿は招待所ばかりだったがたくさんあって、その中から雰囲気の良さそうな宿を選んで宿泊した。宿のお姉さんは親切で、 日本人というのが珍しいのか、僕が日本人だと分かるといろいろ親切にしてくれた。何といっても笑顔が返ってくるのがうれしい。
宿の人に、この周辺にあるはずの哈尼族(ハニ族)の住居の絵を見せて情報収集を試みると、 この周辺では甲寅、阿扎河、洛恩、浪堤といったところで見ることが出来るということが分かった。夕食のために外出するが、 この町には街灯がなく、夜になると家や売店からもれてくる光以外、明かりらしい明かりもなく真っ暗だ。 おまけにバイクまでもがライトをつけずに走っていて、恐ろしいことこの上なかった。
今日は昨日聞いたうちの阿扎河という所へ行ってみることにした。バスの出発は11時。少し前に宿を引き払ってバスターミナルに向かう。 またぽつぽつと雨が降り始めた。バスターミナルで阿扎河に行きたいと言うと、あっさり「没有」と言われてしまった。 わけを聞いてみるとどうやら天候不良のためバスの運行がストップしているらしい。地図を見ても阿扎河はかなりの僻地にあるらしい ことが予想できるが、それほどまでに道路事情が悪いのだろうか。だからこそ行ってみたかったというのはあったが、 バスがないのでは仕方がない。目的地を甲寅に変更し、12時のバスで甲寅を目指すことにした。雨足はますます強くなっていく。
甲寅の町
甲寅行きのバスは予定通り出発した。しばらくはコンクリートで舗装された道路が続いたが、突然舗装道路は途切れ、 泥まみれの悪路に変わった。
紅河周辺はほとんど全面的に開拓された畑地で山が覆われている。雄大ではあるが、少し寒々しいような印象も同時に受ける。 天気が良ければものすごく雄大な風景が楽しめるのだろうが、あいにくの天気である。時々気まぐれに顔をのぞかせる青空がそう思わせる。 紅河からはつづら折りの道をぐるぐると一旦低地まで降りる。低地にはバナナの植林地が広がっていた。禿げ山とバナナという、 何とも奇妙な取り合わせだった。しばらくしてまた山を登りはじめるが、ここに来て濃い霧があたりを覆い始めた。山を登り、 かなり高度をかせいだところでようやく霧の上に出た。それからしばらく走ると、目的地である甲寅に無事到着した。
メインストリートの様子
甲寅は小さいながらもコンクリートの建物も建つ、小さな町、もしくは大きな村といった感じのところだった。 しかし驚いたのは、民族衣装を着た女性の数の多さだった。店で働く人も民族衣装を着た人が多い。 甲寅のメインストリートらしき通りには、まさにそのような人達の姿でごった返していた。そういえば今日は日曜日だ。 もしかしたらこれは日曜市なのかもしれない。少し得したような気がした。心配していた宿も無事見つかりチェックインする。 この宿には別棟に屋上テラスがあり、そこからの眺めが素晴らしかった。一時的に雨は止み、青空が顔をのぞかせ、 その下に雄大な山並みと雲海が広がっていた。まるでこの町に来たことを歓迎してもらっているかのようなタイミングの良さだった。
甲寅の市場
荷物を置いて町をぶらついてみることにする。中心部にはコンクリートづくりの建物が建っているとはいえ、 少し歩けばもうそこには茅葺き屋根の民家が建ち並んでいる。この住居が見たくてはるばるここまでやって来たのだ。
それにしてもこれだけ民族衣装を着た人が多いということは、この付近にそれだけ哈尼族の村が多いことを意味しているはずだ。 町をぶらぶらしていると、ふいに眺望が開け、向こうに茅葺き屋根の集落が点在するのが見えた。やっぱりあった。意外に近そうだ。 歩いて2時間といったところだろうか。明日行ってみようかとも思ったが、明日が晴れとは限らないので、 雨が止んでいる今のうちに行ってみようかなと思ったときにはもう足が動いていた。
日曜市から帰る人達がいたので、勝手にその後をついて行くことにした。道はドロドロの悪路で、すぐに靴も泥まみれになってしまった。 やがてバス道を外れ、上に向かう狭い道へと入っていった。この道で本当にあっているのだろうかと思っていると、もうそこに集落があった。 この道から見る風景もまた素晴らしく、霧は雲海となって、下の方で前進後退を繰り返していた。
勝手に後をついて行った
村へ帰る人達
村に行く途中の道から見えた風景。果てしなく雄大な雲海が素晴らしかった
村の中の様子
集落には門があり、その門はそのまま広場につながっていた。「だれだ、こいつ?」という人々の視線を笑顔で受けつつ、 集落内を散策させてもらう。それほど美しいとは思わなかったが、まぎれもなく茅葺き屋根ばかりの集落で、少数民族の生活がそこにはあった。 女性の大半は民族衣装を着て、水場で洗濯などしていた。壁は土ブロックを積み上げたものだ。集落内の道は、主に赤茶けた土のままで、 部分的に雨でドロドロになっていた。さてスケッチでもしようかとスケッチブックを取り出した途端に雨が降り始めた。 木陰で雨宿りしていると、ほどなくして雨が止み、今度は眩しいばかりの青空が顔をのぞかせた。再びスケッチブックを取り出し、 スケッチをはじめると例のごとく、真っ先に子供達が興味を示し始めた。はじめはおそるおそる近づいてくるが、 危険がないと分かると段々大胆になってくる。スケッチの途中に子供達の写真を撮ると、もう大騒ぎで「また撮って、撮って」 とせがんでくる。それを見てわらわらと大人達も集まってきて、やれ飯くってけだの、酒飲もうだの、いろいろ言ってくれる。 子供が家から饅頭を三つも持ってきてくれて、早くも僕のお腹は一杯だ。
村の人々
スケッチを終え、招かれて近所のお宅にお邪魔させてもらうことになった。そこでお茶をごちそうになり、 突然の闖入者であるにもかかわらず、手厚く僕をもてなしてくれた。あまり遅くなると甲寅へ帰れなくなってしまうので、 そろそろ失礼しようとすると、家の人は「どうしてご飯を食べていかないの」と、何とも悲しそうな顔をするので、結局帰るに帰れなくなり、 そのままご飯をごちそうになり、一晩泊まらせてもらうことになってしまった。
この村では大人の男性以外は、ろくに筆談も通じないので意志の疎通にはかなり苦労する。やはり言葉が出来ればと、つくづく思った。 こんな小さな村でも立派にテレビがあって驚かされた。このテレビを見るためか、それとも僕を見物にやって来たのか、 広いとは言えない部屋は20人近くの人がひしめき合う、何とも民族色の濃い空間となっていた。やかましくおしゃべりしていた人達も、 流行りのドラマが始まると、黙りこくってテレビにくぎ付けなのがおかしかった。
この家にお邪魔させてもらった
この家の主人は寝る直前に家に帰ってきたが、この人も親切な人だった。おそらくこの村には、男が集まりくつろぐ家と、 女が集まる家というのがあり、この家は女性が集まる家となっているのだろう。主人は長椅子を二つくっつけて、 即席で僕の寝床を作ってくれた。寝る前に外に小便をしに行くと、空には満天の星空が広がっていた。明日は晴れかな。
朝、まだ日ものぼらないうちから集落の一日は始まる。僕は入口すぐの所に寝ていたので、誰かが活動をはじめると、 いやおうなく目を覚まされる。それでもしぶとく寝ていたが、そろそろ日ものぼろうかという時に、突如子豚の悲鳴が響き渡り、 完全に起こされてしまった。
天気は申し分なく、気持ちのいい朝だった。雲の隙間から朝陽が差し込み、光の筋となって水の張られた棚田に降り注ぎ、 キラキラと水面を輝かせていた。
朝飯をごちそうになった後、お礼を言って甲寅へ戻ることにした。抜けるような青空の下、気持ちよく甲寅までの道を歩いて帰った。
村から見た朝の風景
宿に戻ると、宿のおばさんが「一体昨日はどこに行っていたんだい?」と心配げに聞いてくれる。 昨日は近くの村に泊まってきたということを説明し、荷物をとって宿を引き払った。ぎりぎり紅河へ戻るバスの発車時間に間に合った。 出発の合図をするバスの中で出発を待っていると、公安の人が数人バスに乗ってきた。乗客かなと思っていると、 彼らは真っ直ぐ僕の所にやってきて、僕に向かってバスを降りるように指示してきた。どうやら早速昨日のことがばれてしまったようだった。 宿のおばさんが僕のことを通報したのだろう。あまりにも早い対応に驚きながら、不安を胸に村の交番へ連れて行かれた。
中国語がしゃべれないので、筆談で対応することになる。やはり昨日どこに行っていたのかが問題になっているようだった。 皆いかつい顔をして僕を見ている。中には手錠をガチャガチャさせる者もいて、僕の不安はますます高まるばかりだ。 パスポートを提示すると公安はそれをぺらぺらとめくりチェックする。緊迫する雰囲気の中、僕は昆明で手に入れた建築本を取り出し、 自分が建築を勉強していること、そしてこの家を見たかったことを説明した。それが効いたのか、 それほどたいした取り調べも受けずに何とか放免された。交番を出たときにはどっと疲れがおそってきたとともに、 心からほっとした。これからはもう少し慎重に動かないといけないと思った。
先ほどのバスはすでに出発してしまっていたので、もう一台のバスに乗り込み出発する。バスが出発したのはそれから数時間後だったが、 動き出してからようやく安心することが出来た。無事紅河に到着し、前に泊まっていた宿に直行する。部屋も前と同じだった。 何だがぐったりと疲れてしまったので、そのままベッドにへたり込み、夕食まで寝て過ごした。夕食を食べた後、 さっぱりするためにシャワーを浴びたかったが、残念ながらこの宿にはシャワーがないのだった。