プロフィール

ほーたんてどんな人?

こんにちは!「ほーたんの楽しい田舎生活」の運営者ほーたんです。

このブログについて

「ほーたん」とは、2歳の娘が私のことを「ほーたん(とうさん)」と呼んでいたことに由来しています。
「ほーたーん!どこにいるの〜?」と呼ぶ舌足らずな声があまりに可愛かったので、そのままニックネームに使ってしまいました。
 
ほーたんの家族は、私と妻、長女(小学5年生)、長男(小学1年生)、次女(2歳)の5人家族です。(2019年8月時点)
2019年3月末に東京から長野県大町市に家族で移住してきました。
 
我が家は、長女の山村留学がきっかけで、大町市に移住することになりました。
 
移住のことを考え出した時は、やはりネットを駆使して様々な情報を探しましたが、なかなか求める情報にたどり着けませんでした。
 
移住のきっかけや移住先、住む家の探し方、移住後の仕事、地元の学校の様子、実際に移住してみた経験談など、知りたい情報はたくさんありますが、移住のあり方は人それぞれなので、我が家のケースにジャストフィットする情報はまだまだ少ないということが分かりました。
 
地方創生に国をあげて取り組んでいることから、今後も地方への移住を考える人はそれなりにいるのではないかと思います。
 
このブログでは、我が家のケースが中心ですが、実際に移住してみた立場から、出来るだけフレッシュな情報や経験を発信していきたいと思います。
 
[こんな人に読んでほしい]
  • 実際に移住を検討中の人
  • 移住に興味はあるけど、実行に移すのは難しいと感じている人
  • 田舎暮らしに興味がある人
  • 生き方を見直したいと考えている人
  • 信州や大町市への移住に興味がある人
 
[発信予定の内容]
  • 移住前に集めた情報
  • 移住の際に気をつけるべきポイント
  • 住む家の探し方
  • 移住後の仕事
  • 古民家リノベーションの様子
  • 日々の田舎暮らしの様子
  • 大町市の魅力やおススメスポット
 
誰が発信しているのかということも気になるポイントだと思いますので、少し長くなりますが、運営者のほーたんとその家族の紹介をしたいと思います。
 

ほーたんの家族

かーさん

 
 
旅とインドを愛する元バックパッカー。
インドを1人で何ヶ月も旅していた強者です。
かーさんとはチベットの玄関口、中国のゴルムドで出会いました。
写真と料理が得意です。
 

はる

 
 
小学5年生の長女です。(2019年8月現在)
2018年度の1年間、親元離れて大町市に山村留学に来ていました。
ほーたんの影響なのか、ものづくりが好きです。
ほーたんに次いで食いしん坊なので、料理にも興味があるようです。
風の谷幼稚園出身
 

だい

 
 
小学1年生の長男です。(2019年8月現在)
笑顔がかわいいバレンタインボーイ。
学校の先生や近所のおじさん、おばさんの人気者です。
理屈っぽくて、いろいろな物事の仕組みに興味があるようです。
風の谷幼稚園出身
 

てる

 
 
2歳の末っ子です。(2019年8月現在)
末っ子らしく皆んなに可愛がられてわがままいっぱいの甘えん坊に育ってます。
3人の中では一番気が強いです。
 

ほーたんについて

ほーたんが大事にしていること

  1. 家族を大切にすること
  2. 誠実であること
  3. 自分でできることは何でも自分でやってみること
  4. その時自分にできるベストを尽くすこと
  5. 出来るだけ環境への負担が少ない生活をすること
  6. 毎日の暮らしを楽しむこと

趣味・特技

  • 竹細工
  • 木工
  • 古民家リノベーション
  • 燻製
  • 炭焼き
  • 畑仕事
  • 読書
  • スケッチ
  • 集落探索

出身地

大阪生まれ大阪育ちです。(昭和49年生まれの45歳:2019年8月現在)
大阪の中でもコテコテの南河内郡の生まれですが、大阪人らしさは微塵もなく、大阪出身というと皆に驚かれます。
大学生時代は一時期神戸に下宿してましたが、最初の会社勤めまでは大阪に住んでました。
 

大学、大学院生時代

大学進学時は明確な進路はありませんでしたが、消去法で建築科を選択しました。
 
マニアックな建築の世界の魅力にすっかりハマってしまい、大学院まで進学することになります。
 
建築といっても都市計画や建築デザイン、建築構造、環境デザインなど色々な分野がありますが、私が選んだのは建築デザインの中の集落研究というニッチな分野でした。
 
神戸在住時に阪神淡路大震災があい、当時住んでいた安アパートは全壊。
九死に一生を得たこの経験が私の人生観を変えた1つ目の大きな出来事でした。
 
この時代のハイライトは大学院の修士論文の研究のために行った、フィリピンの山岳民族の集落でのフィールドワークです。
 
フィリピン北部の山岳地帯に住む少数民族カリンガ族の集落におおむね1人で2か月ほど滞在し、測量したり、村人に聞き取りしたり、儀式に参加したりしました。
 
フィールドワークのために滞在していたフィリピンの山岳民族の集落

棚田が美しいフィリピンの山岳民族の集落

集落内の様子。この当時はまだ電気も通っていませんでした

 
私の田舎好き、集落好きはこの時から始まり、今も続いています。
 

大阪勤務時代(設計事務所)

大学院修了後は大阪にある小さめの設計事務所に入社しました。
まだまだ若くてウブな私は、力を抜くということも知らずに馬車馬のように働いてました。
 
設計事務所もIT業界やコンサル業界と並ぶブラックな業界だと思いますが、働き方改革という考えもまだなかった当時は過労死レベルを軽く超える働き方をしてました。
 
その事務所しか知らなかった私は、それでも2年ほどは頑張って働きました。
まだ若かったので体力的には何とかなりましたが、だんだんと精神的に追い詰められた私は事務所を辞めて長い旅に出ることにしました。
 

バックパッカー時代

事務所を辞めた後、アルバイトで資金を貯めて長い旅に出ます。
いわゆるバックパッカーというやつです。
 
大阪から船に乗って中国の上海へ。
大学で集落の研究をしていたこともあって、僻地にある集落を訪ねて歩くような旅でした。
 
中国福建省にある客家の円形土楼

中国福建省にある客家の円形土楼のスケッチ

 
沢木耕太郎に憧れてというわけではありませんが、主にバスを使って中国国内を旅してまわりました。
 
中国中南部を回った後、一旦東南アジアに南下して、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナムを訪れてから再び中国に戻りました。
 
今度は中国を北上し、四川省のチベット圏、河北省などを訪れた後、チベットの玄関口であるゴルムドに向かいました。
 
このゴルムドでかーさんと出会うことになります。
このゴルムドから日本人4名でランクルをチャーターしてチベットのラサを目指します。
当時はまだチベット鉄道もなかったので、闇バスで行くか、車をチャーターして行くしか方法はありませんでした。
 
ラサに滞在中に9.11の同時多発テロが発生。
ラサの後、私はカイラスを経由してパキスタンに抜ける予定でしたが、パキスタンに入国できるような情勢ではありませんでした。
そのため、特に行き先が定まってなかったかーさんと一緒にヒッチハイクやバスを乗り継いでラサからネパールの国境を目指すことにしました。
 
ヒッチハイクしたトラックの荷台から見たチベットの風景

ヒッチハイクしたトラックの荷台から見たチベットの風景

 
結局かーさんとはネパールからインドまでずっと行動を共にすることになりました。
 
当初の計画ではアフリカまで行く予定でしたが、最初に訪れた中国が楽しすぎて長居してしまい、結局インドまで行ったところで1年2ヶ月の旅を終えました。
 
この旅の様子は、帰国後に立ち上げた「アジア素描」というWebサイトで公開していましたが、仕事が忙しくなりすぎて更新途中で閉じてしまいました。
当時同じようにバックパッカーでサイトを公開されていた主だった方とは相互リンクさせていただいていたので、同世代の方で旅好きの方はもしかしたら見かけたことがあるかもしれません。
 
昔運営していた旅サイト「アジア素描」のトップページ

昔運営していた旅サイト「アジア素描」のトップページ

 
「ほーたんの楽しい田舎生活」のドメインであるasia-sketch.comは、「アジア素描」で使っていたドメインを再取得したものです。
一時期他の方が使われていたようですが、現在は利用可能な状態になっていたので、このブログの開設にあたって取り戻すことにしました。
 
いつかまた、この旅のことをまとめてどこかで公開できたらいいなと思っています。
 
この長旅が私の人生観を変えた2つ目の大きな出来事です。
 

東京勤務時代(その1:設計事務所)

日本に無事帰国したはいいものの、かーさんは東京、私は大阪です。
何のツテも金銭的余裕もありませんでしたが、かーさんを追って私は上京することにしました。
レオパレスの狭い一室を借り、日雇いのアルバイトで日々の生活費を稼ぐ毎日。
なけなしの貯金も目減りしていくなか、このままではどうしようもないので恥を忍んで妹に借金し、正社員を目指して就職活動を始めました。
 
その結果、何とか赤坂にある設計事務所に正社員としてもぐりこむことができました。
 
この会社も大阪の事務所と同じくブラックな労働環境でしたが、ぼちぼち生活できるぐらいの収入を得ることはできました。
 
この会社の仕事の関係で前職の監査法人の人とつながりができ、2年勤めたあと、転職することに成功しました。
 

東京勤務時代(その2:監査法人)

これまで、小規模な設計事務所しか勤務経験がなかった私ですが、ここで初めて大きな会社に勤務することになります。
 
それまで恥ずかしながら監査法人という会社が存在することすら知りませんでしたが、縁あって四大監査法人の1つにコンサルタントとして潜り込むことができました。
 
他業種からの転職ということで、最初は一番下の職階であるスタッフからスタート。
コンサル業界もまた労働環境という点ではかなりハードでしたが、待遇面も職場環境も、それまでの職場と比べると天国のような会社でした。
 
人間関係にも恵まれ、結局その後14年ほど勤務することになりました。
 

かーさんとの結婚

前職の会社に就職したおかげで、安定した生活が手に入り、中国で出会ったかーさんとようやく結婚することができました。
中国で出会ってから四年後のことです。
 
古い平屋の一軒家を借りて新婚生活がスタートしました。
この頃から味のある日本家屋や縁側のある暮らしに憧れがありました。
 
ただ、あまり造りのいい家ではなかったので、湿気やカビに悩まされました。
 

長女の出生・家の新築

結婚してから3年ほど経って妻が長女のはるを出産。
妻の妊娠を機に私の働き方も大きく変わりました。
それまでは仕事の虫でしたが、1分1秒でも早く帰りたいという思いで、効率的、効果的な仕事の進め方を模索し、時短を追求する方向へ舵を切りました。
 
また、子どもが生まれたこともあって、住環境を良くしたいという思いが強くなり、たまたま妻が散歩中に見つけた土地をほぼ即決で購入してしまいます。
すぐ隣が畑でその向こうが川という、都内にしては緑に囲まれた自然環境豊かな土地でした。
 
結果としてはとてもいい決断でしたが、今考えてもなかなか無茶なことでした。
物事が大きく動くタイミングというものがあって、前に進むためにはそのタイミングを逃さずにうまく乗ることが大事だと思ってます。
大町への移住もそうですが、この時もまさに前に進むためのタイミングだったのだと思います。
 
もともと建築を学んでいたこともあり、住む家にはこだわりたいという思いが強くあったので、木造住宅で有名な吉田桂二先生の連合設計社市谷建築事務所に設計を依頼することにしました。
 

連合設計社に依頼して新築した東京の家

 
建築関係の雑誌で吉田桂二先生の住宅に関する考え方を特集した記事を読んで、共感できるところが多数あったことが決め手となりました。
 

風の谷幼稚園

幼児教育にこだわっていて、なおかつ自然環境が豊かな幼稚園に入れたい。
そんな妻の希望をかなえる幼稚園が家からギリギリ通える圏内にひとつだけありました。
それが風の谷幼稚園でした。
 
我が家を語る上でこの幼稚園の存在は欠かせないものとなりますので、少し詳しく説明したいと思います。
 
『人間としての誇りを持ってしっかり生きていく』
そんな力を持った子どもたちを育てたい
 
園長の天野先生の幼児教育に対する考えです。
天野先生の教育方針や幼稚園の活動内容については、以下のリンク先の記事によくまとめられているので、興味のある方は是非読んでみてください。
幼児教育に関心がある方には様々な気づきがあると思います。
 
 
この幼稚園が大事にしている4つの基本は
 
  • 体ごと遊ぶ
  • 手を使う
  • いっぱい歩く
  • 親も一緒に
 
この「親も一緒に」がポイントで、様々な場面で親も園と関わりを持つようになります。
 
園は約5000坪の敷地があり、その中には谷戸や竹林もあります。
これだけ広大な敷地が最初からあったわけではなく、園周辺の緑を守りたいという園長先生の考えに共感する保護者からの寄付や年一回開催されるバザーの収益をコツコツと貯めて、少しずつ土地を買い増した結果です。
当初はジャングルのようだった荒地を先生と保護者が協力して開拓し、広場や畑などを整備してきました。
 

この竹林も幼稚園の敷地のうちのほんの一部

 
長女のはるが風の谷幼稚園に入園した年に、この谷戸や竹林の整備を目的とした父親たちのボランティア組織である風の谷森林組合が結成されました。
 
園と積極的に関わりたいと考えていた私も森林組合の初代メンバーになりました。
 
森林組合では竹を伐採して、竹林を整備しますが、切った竹をどうするかということが課題となっていました。
 
そこで、竹の廃材を使って箸や楽器、おもちゃなどを作ってバザーで販売する取り組みを始めました。
燃やせばゴミでしかない廃材も手を動かして商品を作れば、付加価値のあるものに変わるということがわかりました。
もともとモノを作るのは好きでしたが、この時に改めて自分はものづくりが大好きだということに気がつきました。
 
この時以降、竹や木を使ったものづくりの世界にのめり込んでいきます。
この森林組合での経験が、大町への移住の下地になっていることは間違いありません。
 

山村留学との出会い

長女のはるが小学4年生の時に、1年間山村留学で大町市の小学校に通いました。
 
山村留学の制度を知らない人も多いですが、私も知りませんでした。
 
妻が小学生の時に同級生が山村留学していて、自分の子どもにもそんな経験をさせてあげたいという思いから、娘を1年間親元から離して山村留学させることにしました。
 
山村留学を実施している団体は全国にありますが、ここ大町市で育てる会が始めたのが発祥です。(当時は八坂村)
 
せっかく山村留学に出すのであれば、歴史のあるところの方がいいかと思い、大町市を選びました。
 
山村留学の詳細については、また別の記事で書く予定なので、ここでは移住に焦点を当てたいと思います。
 
山村留学中の娘に会うために月に一度程度、大町市に通ううちに、娘が通う小学校や大町市の魅力に夫婦揃ってどんどんと引き込まれていきました。
 
山村留学の関係者や娘の同級生の親など、知り合いがどんどん増えていきましたが、その中にも移住者がかなりの割合で含まれていたのもポイントになりました。
 
そしてなんといっても大町市の豊かな自然が決め手になりました。
こんな恵まれた環境の中で子どもを育てたい、親である自分たちもこんなところに住みたいという思いが募りました。
 
4月に山村留学が始まって、6月にはすでに大町への移住に向けて具体的なアクションを取り始めました。
 

大町市への移住

移住を実行に移すにあたって、大きなハードルが3つありました。
 
  1. 東京の家のこと
  2. 大町で住む家のこと
  3. 仕事のこと
 

東京の家のこと

 
東京の家は新築した持ち家でした。
終の住処だと思ってこだわって建てた家です。
人に貸して持ち家のまま維持していくことも考えましたが、住宅ローンが残っていたので現実的には難しく、結局は売却することにしました。
 
終の住処になるだろうと思ってこだわって建てた家だったので、まさか10年後に売却することになるとは思ってもみませんでした。
しかし、こだわって建てたことで、売却に際しても、築10年の割には資産価値がそれほど落ちておらず、随分と助けられました。
何事もそうですが、こだわることの大事さを改めて実感しました。
 

大町で住む家のこと

 
東京の家の売却とセットで大町で住む家のことも考えないといけません。
 
住環境には特にこだわりたい我が家の場合、つなぎで賃貸に住むという選択肢はありませんでした。
 
築年数がそこそこ古くて、でも状態が良く、できれば下水道も整備されている物件が理想でした。
 
いい物件が公にはなかなか出てこない大町ですが、運よく物件を本格的に探し始めた頃に今住んでいる家が売りに出たので、何回か内覧した後に購入を決めました。
 
東京の家の売却が先か、大町の家の購入が先か、難題でしたが、何とかなるだろうという楽天的な気持ちで買い先行で進めることにしました。
 
このあたりのことはまた別の記事で書きたいと思いますが、結果として、売りの方も理想的なタイミングで決まり、大きなハードルのうち2つをクリアすることができました。
 
築60年以上は経っている古屋のため、比較的状態はいいものの、そのままでは快適な生活ができる状態ではなかったので、引っ越し前に最低限の改修をすることにしました。
このリノベーションのことについては、今後アップしていきたいと思います。
 

仕事のこと

 
大きなハードルの3つ目は、仕事のこと。
東京での仕事と移住後の仕事をどうするかということです。
 
移住を考えている人の中でも、やはり仕事のこと、収入のことが足かせになって、なかなか足を踏み出せない人も多いのではないでしょうか?
 
東京での職場では14年ほど在職していたので、それなりに責任のある地位に就いていました。
 
ちょうど移住を考え始めた頃に、幹部候補向けの研修プログラムの対象者として打診がありました。
 
この研修を受けてしまうと会社を辞めるのも踏ん切りがつかなくなるし、会社にも迷惑をかけてしまうと考え、まだ具体的にアクションを起こす前でしたが、上司に移住のことを話し、研修は辞退することにしました。
 
早くから会社に意向を伝えておいたおかげで、退職に向けた準備の時間も十分に取ることができ、スムーズに円満退職することができました。
 
そして、大町での仕事のことです。
 
このことについてはまた別の記事で詳しく書きたいと思いますが、結論としては、長野県にある技術専門校で2年間建築大工の職業訓練を受けることになりました。
 
職場訓練を受けることで失業手当の給付が最大2年間まで延長されるので、当面の収入は十分ではありませんが失業手当である程度賄うことができます。
 
この2年間で住環境や大町での生活の基盤を整えるとともに、今後の進むべき方向性を考えたいと思っています。
 

今後のこと

 
今後のこと、主に大町での仕事のことについて今考えていることを最後に少し書いておきたいと思います。
 
モノを作るという仕事に強い憧れがあります。
大工の職業訓練を受けることに決めたのも、木を加工する基本的な技術を身につけて手に職を付けたいと考えたからです。
 
せっかく大町の山里に住むことになったので、できれば木を扱う仕事をしたいと考えています。
 
今考えているのは、木を伐り出すきこりと木を加工して付加価値をつける木工や大工を組み合わせて何か出来ないかということ。
 
年齢のことも考えると実現可能性がどの程度あるのかわかりませんが、とにかく前に進みたいと思います。
動かないことには何も始まらないので。
 
というわけで、このブログでは移住に関すること、古民家リノベーション、大町市での日々の田舎暮らしの様子などをほぼリアルタイムで発信していきたいと思います。
 
どうぞお楽しみください!